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説教 「あなたがたの信仰はどこにあるのか」

『あなたがたの信仰はどこにあるのか』
(ルカ8:22−25)
(2008年・7月20日・ベテル清水教会 聖日礼拝)


今日も一緒に、ルカによる福音書から御言葉を学びたいと思います。

もう一度、8章22節からご覧ください。
8:22 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。

この物語は、マタイ8章、マルコ4章にも出てきます。
マタイでは、「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」とあります。

また、マルコとルカでは「向こう岸に渡ろう」というイエス様の言葉に従って、弟子たちが舟を出しています。
つまり、三つの福音書に共通していることは、弟子たちは、イエス様の後に従って、イエス様の言葉に従って、舟を出しているという事です。
イエス様の後に従って行ったら、イエス様の言葉を聞いて、従って行ったら嵐に遭遇した、ということです。

みなさん。私たちがイエス様に従うのは、嵐に遭わないためでしょうか。
もちろん、誰だって嵐に遭遇することを願う人はいません。
嵐がないに越したことはありません。
しかし、人生には嵐がつきものなのです。
イエス様と共に歩んでも、歩まなくても嵐には遭遇します。
大切なのは、襲ってくる突風、嵐を、どのように乗り越えるか、ということです。

クリスチャン弁護士に佐々木満男さんという方がおられます。
ササキさんが、ある時、国会議員のパーティに参加された時に、ある議員がこう嘆いていたそうです。
「自分を含めて日本人にはイザというときの支えとなる根っこがない」と。
これは政治の難局に直面している議員たちの共通の嘆きだそうです。

根っこがないから、状況の変化に右往左往してしまうというのです。
人生の地震に倒され、人生の嵐に吹き飛ばされ、人生の洪水に流されてしまう、というのです。

毎年3万人以上の人が自らの命を絶っています。
特に、中高年男性の自殺者が増加しているそうです。
会社を生活のすべての支えとしてきた人にとって、会社が揺れれば、その人の人生も揺れてしまう、というのです。
人生を支える根っこの部分を、多くの人は必要としているというのです。

教会の前に大きな木がありました。
このまま放置しておくと、家にも良くないということで、昨年、伐採しました。
根こそぎ抜き去ることは不可能です。

切り株だけになり、死んだような状態にありました。
しかし、根っこがしっかりとしているので、この切り株から若枝が出てきているんですね。
もう腐っただろうと思っていたのですが、根は生きていたのです。

今日、最初に心に留めておきたい御言葉は「イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り」という言葉です。
舟の中にイエス様が一緒にいたのです。
弟子たちを舟に導いたのは、イエス様でした。

さて、みなさん。この舟とは何を意味するのでしょうか。
この舟とは、教会のことを意味します。
いつも繰り返し申し上げていますように、福音書を読むときに、大切なのは三つの視点です。
第一は、イエス様と共に歩んだ弟子たちの視点です。
第二は、イエス様と共に歩んだ初代教会の視点です。
第三は、イエス様と共に歩んでいる私たちの視点です。

マタイやマルコやルカは、福音書を、イエス様を信じる人々、つまり教会に向けて書き綴りました。
初代教会の人々は福音書を、この物語をどのように読んだのか、ということを黙想することが大切です。
また、私たちも、この物語を通して、神様が何を伝えようとしているのかを黙想しながら、聞いていくことが重要なのです。

みなさん。教会のシンボルは何でしょうか。
教会のシンボルといえば、十字架ですね。
十字架の意味を知っている者にとっては、十字架を見つめているだけで、そこから聖書のメッセージが聞こえてきます。
象徴とは、そういう役割を持っています。

実は、教会では長い歴史の中で、舟が教会のシンボルとして使われました。
ノアの箱船は、救いの象徴でした。
大洪水を乗り越えることができたのは、この箱船に入ったノアの家族たちだけでした。

教会は、ノアの時代の箱船のような存在です。
舟の中には、イエス様がいました。
イエス様が共にいる舟は沈まない。
どんなに大きな嵐に遭遇しても、主が共にいるならば、決して沈まない。これが初代教会の信仰でした。
迫害の嵐の中にあって、教会は、自らをこの沈まない舟に例えて、試練を乗り越えていったのです。

主が共におられるならば、舟は決して沈まない。
これが今日の中心的なメッセージです。

みなさん。英語では、礼拝堂の中央部分をnave(ネイブ)と言います。
みなさんが座っている会衆席のことをネイブというそうです。
これはラテン語のnavis(ナビス:舟)という言葉から来ています。
これも教会は舟であるというところから、来ています。
みなさん、私たちは沈まない舟の中に招かれているのです。
なぜ、沈まないのでしょうか。それは主が共にいるからです。
主が共にいる舟は沈まないのです。
嵐には遭遇しますよ。洪水は押し寄せてきますよ。
溺れそうにもなりますし、神様に助けを求めなければならないときもあります。
それでも、舟は沈まないのです。
なぜなら、主が共におられるからです。
私たちの人生の舟もそうです。

私たちの人生の舟も、嵐に遭遇します。
突風が吹いてきます。溺れそうになります。
しかし、主が共におれるのです。
大切なのは、その時に、主を求めて、主に近づくことです。
主は、私たちの舟を守り、嵐を静めてくださるのです。

今、聖書日課では一ペトロを読んでおります。
ペトロは、各地に離散していったクリスチャンたちに向けて、励ましの手紙を書いています。
ペトロは、彼らのことを「旅人」と言っています。

私たちは、イエス様に従って、イエス様と共に旅をする旅人です。
「向こう岸に渡ろう」というイエス様の言葉にしたがって、神の国を目指して、人生の船旅をしているのです。

まさに教会は「舟」です。
舟の中には、イエス様が共にいます。
イエス様が共におられるので、決して舟は沈みません。
みなさん。確信しましょう。
私たちの舟には、イエス様が共にいます。
この教会の中にも、イエス様が共にいてくださる。
そこに目を向けていきましょう。

8:23 渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。

ここは、イエス様の人間性を感じさせる箇所です。
イエス様は、私たち人間と同じ肉体を持ってこの世に来られました。
お腹も空かれますし、喉も渇かれますし、涙を流したり、怒ったり、眠られることもありました。
イエス様は舟の中で眠ってしまわれた、とあります。
舟だけに舟を漕ぎながら、熟睡されたのです。
今日、二つ目に、心に留めたい言葉は「イエスは眠ってしまわれた」という言葉です。

実は、三つの福音書は、すべてイエス様が舟の中で眠ったということが記録されています。

当時の舟は、現代の客船とは違います。
舟の中で寝るという光景は、非常に珍しいものでした。
当時、海は魔物が住む世界のように考えられていましたし、
海の上は、危険と隣り合わせなので、舟の中で寝ることは論外でした。

舟の中で寝ることができる人は、酔漢。つまり大酒を飲んで、酔っぱらった人だけだったのです。

つまり、酒に酔っぱらわなければ眠れないような場所。
それが海の上でした。
酒の力を借りなければ、薬の力を借りなければ眠れない。
最初にも申しましたが、不眠症で悩む人がいるでしょう。

とても寝ていられないような場所で、寝ていられない状況の中にあっても、主は眠りたもうたのです。

詩編127編2節には「主は愛する者に眠りをお与えになる」とあります。」

とても眠れないような場所であっても、眠れないような時であっても、主は安息を与え、休ませてくださる。
これが二つ目のメッセージです。

みなさん。平安とは、よく言われますように、波風が一つもない湖面の状態を指すのではありません。
静かな湖面は、石ころ一つが投げ入れられただけでも、湖面が揺れます。

本当の平安とは、嵐の中の安らぎです。
眠れないような場所にあっても、眠れないような問題が起こっても、主を信頼して、眠りにつく世界。
これが本当の平安です。

そして、その平安を、私たちはどのようにして得られるのでしょうか。
眠れない場所、眠れない問題を抱えたときに、どうすればいいのでしょうか。
弟子たちは、恥も外聞も捨て、イエス様に向かいました。
漁師としてのプライドもありません。
イエス様に助けを求めたのです。

8:24 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。

この「おぼれそうです」とという言葉は、直訳すると「滅びます」という意味です。
「先生、先生、死んでしまいます」という意味です。

海のプロである漁師たちが、「溺れそうです」というのですから、相当ひどい状態にあったのでしょう。

タイタニックの映画を何度も見ましたが、あの舟が沈んでいくときに、ジャックとローズの二人が、水かさが増してくる舟の中で、もがきながら、危機一髪で脱出をしていくシーンには、息がつまりました。
まさに、彼らは溺れている状態ですね。

イエス様の弟子たちも、舟に水が入り、あのような緊迫した雰囲気があったのかもしれません。
もうダメだ、と思った瞬間、舟の中で眠っておられる、イエス様の姿に気づいたのです。
そして、イエス様を起こして、助けを求めたのです。
イエス様は、起きあがって、風と荒波を叱りつけられると、波が収まり、凪になった、というのです。
そして、イエス様は弟子たちに言いました。

8:25 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

今日、最後に心に留めたい御言葉は、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という言葉です。
どこにあるのか、ということは、どこに置いているのか、ということです。
みなさん。あなたの信仰の根っこはどこにあるのか、ということです。

使徒言行録27章をお開きください。
ここにパウロがローマに向かって旅をする話が出てきます。
この時、パウロを乗せた舟が、大暴風に遭遇します。

27:20 幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。
27:21 人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。
27:22 しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。
27:23 わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、
27:24 こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』
27:25 ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。
27:26 わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」


パウロは、舟が暴風に遭遇し、舟が沈みそうになった時、神の言葉を聞きました。
この神の言葉が彼の信仰の根っことなりました。
そして、人々を励ましたのです。

宗教改革者マルティン・ルターは「back to the BIble」と言いました。
聖書に帰る。
御言葉に立ち帰る。
神の言葉こそ、信仰の根っこです。

弟子たちは、嵐に遭遇する中で、「向こう岸に渡ろう」と言われた、主の言葉を見失ったのです。
この船旅をリードするのは、主なのです。
主が語られた言葉は,必ず実現します。

パウロは、誰もがあきらめかけた時に、主の声を聞きました。
「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」と。

パウロは、この神の言葉を信じ、人々を励ましたのです。
「わたしに告げられたことは、そのとおりになります」と。

みなさん。今回、この御言葉を準備する中で、主はわたしに語ってくれました。
第一は、「あなたの舟は沈まない」と。
第二は、「私を求めなさい」と。
第三は、「私の言葉を思い起こしなさい」と。

この三つのことを、主はわたしの思いの中に語りかけてくれました。

主が共におられる舟は沈みません。
主は突風をも静めてくださり、向こう岸に導いてくださるお方です。
弟子たちは向こう岸にどんな世界が待っているのかは知りませんでした。
向こう岸には、主の驚くべき御業が待っていました。

私たちの教会が向かう、向こう岸にも、主の驚くべき御業が待っていると信じます。

今こそ、主を求めていきましょう。
弟子たちは、主を求め、主を体験し、主を求め、体験し、ということの連続の中で、主を更に深く知るようになりました。
わたしたちも、もっともっと深く主を知りたいと思います。
知識としては知っているでしょう。
頭ではよく理解しているかもしれません。
しかし、私自身、もっともっと主の恵み深さを味わい知りたい、体験したいと願いました。
弟子たちが、主に近づき、本音を叫んだように、主に求めていきましょう。

私は、このメッセージを準備する中で、主が私に語ってくれた御言葉を思い出しました。
涙を持って祈っている中で、創世記28章15節の御言葉が与えられた時のことを思い起こしました。
その御言葉をレーマとして握りしめてベテルチャーチを始めました。
これがこの教会の原点です。

28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
あなたたちの信仰はどこにあるのか。


今朝、もう一度、わたしはこの御言葉の上に信仰を置きます。
そして、主がこの清水の土地に、主が喜ばれる教会を建て上げてくださると信じ、向こう岸を目指して歩んでいきます。
主の舟は沈まない。
私たちの信仰は、主の御言葉に根ざしています。
主を求め、主の御言葉を信頼し、共に向こう岸を目指して、歩んでいきましょう。
お祈りします。