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『真の礼拝者』
(ルカ7:1−10)
(2008年・5月18日・ベテル清水教会 聖日礼拝)


一人のお年寄りが川で洗濯をしていました。
そばには小さな女の子がいます。
警察官がやってきて、「失礼ですが、この子はあなたのお孫さんですか」と聞きます。
すると、このお年寄りは「はい、そうです。私の孫です」と答えました。

警察官は、今度は、女の子に尋ねます。
「お嬢ちゃん、この人は、あなたのおばあちゃんですか」
すると、女の子は、「違う」と答えました。

一方は「孫だ」と言い、もう一方は「違う」と言う。
実は、二人とも嘘はついていなのです。
なぜなら、川で洗濯をしていたのは、おじいちゃんだったからです。

私たちは川で洗濯をしていると聞くと、頭の中でおばあちゃんというイメージを持ちます。
そして、そのイメージによって、真実が見えなくなります。

日本には多くの神々が祭られていますし、多くの宗教がありますから、神様に対しても、ある種のイメージを持っています。
このイメージが真実を見えなくさせるのです。

このイメージを払拭するためには、真実の世界に目が開かれる必要があります。
お年寄りが、おじいちゃんであったという事実を告げられてはじめて、真実に目が開かれます。
自分が間違ったイメージを持っていたことを知るのです。

私たちは人に対してどんなイメージを持っているでしょうか。
私たちは自分に対してどんなイメージを抱いているでしょうか。
私たちは神様に対してどんなイメージを持っているでしょうか。

私たちは聖書を通して真実の世界を発見することが出来ます。
神様がどういうお方であり、人間がどういう存在であり、私が何者であるのかを知ることが出来ます。
私たちは神様に造られた存在であり、神様は私たちの造り主です。
私たちは神様に愛された存在であり、神様は私たちを愛しておられます。
イエス・キリストは、この真実を伝えるために、この世に来られたのです。
今朝も、ご一緒に真実の世界を教える神の言葉をご一緒に学んでいきましょう。

もう一度、ルカによる福音書7章をご覧ください。
7:1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。

「これらの言葉」というのは、6章20節以下で語られているイエス様の教えであり、イエス様の説教です。

先週、大阪で「教会リバイバルセミナー」が行われ、参加してきました。
テーマは「礼拝の祝福」でした。

礼拝は教会の心臓であり、礼拝が生きると教会が生きる。
そして、説教は礼拝の心臓であり、説教が生きると礼拝が生きる。
私にとって、非常にタイムリーな学びでした。

二日目の朝「説教」についての学びがありまして、
オンヌリ教会のラ・ジュンソク先生は「説教とは、自分の思いや考えや思想を伝えることではなく、神が語られるメッセージを伝えることであり、それは「宣言だ」と言いました。

説教とは、宣言することだ。
自分の考えや思ったことを語るのではなく、神様が語られたことを宣言する。それが説教だ、と。

私は自分の説教をもう一度問い直させられました。

ラ先生は「そうしましょう」とか、「そうしたほうがいいですよ」とか、「私はこう思います」ではなく、「そうしなさい」と、神様が言われたことを宣言する。これが説教だと言われました。

説教が生きると礼拝が生きます。
礼拝が生きると教会が生きます。みなさんが生きます。
みなさんが生きると家庭が生き、社会が生きます。
社会が生きると世界が生きます。
すべての根源は神の言葉である説教にかかっています。
ですから、説教者の責任は重大であり、神の言葉を語る私のために、ぜひ、執り成しお祈りください。

さて、イエス様が語られた「これらの言葉」とは、まさに、イエス様の宣言であり、命令でした。
イエス様は「敵を愛しなさい」と言いました。
「敵を愛した方がいいですよ」ではありません。
「敵を愛する愛する努力をしましょう」でもありません。
「敵を愛しなさい」。これは命令なのです。

また、「悪口を言う者に祝福を祈りなさい」と命じました。
「侮辱する者のために祈りなさい」と命じました。
「求める者には、与えなさい」と命じられたのです。

みなさん。これは言うならば宿題です。
やってもやらなくてもよいのではなく、やらなければならない宿題です。
神の宿題をないがしろにしてはならないのです。
神の宿題をこなしていくときに、神の御業が起こるのです。

みなさん。イエス様の命じられることは、簡単なことではありません。
命令に従うには、決心がいります。努力も要ります。犠牲も伴います。
自然にできることではありません。
躓くことも、挫折することも、失敗をすることもあります。
それでも従い続けることが大切なのです。

主の命令に従う者には、奇跡が起こる。
主の命令に従う者には、神様の不思議な御業を体験する。
まさに、今日のテキストは、そのことを証明する内容であります。

7:2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。
7:3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。
7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
7:5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」


ここに百人隊長が登場します。彼はローマ人です。
当時、ユダヤはローマの属国であり、支配を受けていました。
ユダヤ人は、異邦人であるローマ人を忌み嫌っていました。
敵対心を持っていました。

みなさん。イエス様は敵を愛せよ、と言いましたが、このローマ人は、自分たちを軽蔑し、敵対心を持っているユダヤ人たちを愛していたのです。

みなさん。神様は愛であり、愛は神様の本質です。
愛あるところに神様がおられ、神様は愛する人を祝福します。
彼は、ユダヤ人を愛することによって、ユダヤ人からも愛されました。

ちょうど、六千人の命のビザの杉浦さんが、ユダヤ人を愛し、彼らの命を助けたことによって、多くのユダヤ人たちから愛されたように、この百人隊長も、ユダヤ人から愛されていました。
だから、彼の部下が病気になったときに、ユダヤ人の長老たちが彼の為に動いたのです。
彼の愛が、周りの人々を動かしたのです。

なぜ、彼はそれほどユダヤ人に愛されたのでしょうか。
それは、彼がユダヤ人たちのために自費で会堂を建てたからです。
これぞまさしく、慈悲深い人ですね。

ユダヤ人にとって、会堂(シナゴーグ)というのは、礼拝の中心です。
彼らは、礼拝を重んじる民族です。
この百人隊長は、異邦人でありながらも、多額の献金をしたのは、彼もまた、礼拝を重んじたからです。
そこにおいて、ユダヤ人と異邦人の壁が崩れました。
礼拝を通して、百人隊長とユダヤ人の心は一つになっていたのです。

先週のセミナーの初日には、「礼拝の本質」についての学びがありました。
ラ・ジュンソク先生は「人生は神様との関係にかかっている」と言いました。
神様との関係が人生の明暗を分けます。
ちょうど、岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人のようなものです。

神様との関係が結ばれている人の人生は、岩の上に家を建てた人のような人生であり、それは祝福です。
一方、神様との関係が損なわれている人の人生は、砂の上に家を建てた人のような人生であり、それは呪いなのです。
神様と共に生きる者は祝福であり、神様と離れて生きる者は呪いである。
これは聖書全体を通して、神様が私たちに伝えるメッセージであり、宣言です。

さて、百人隊長は、ユダヤ人たちのために会堂を建てました。
ユダヤ人たちにとって、会堂は、あってもなくてもよい場所ではなく、なくてはならない場所でした。

そこでは聖書が朗読され、解き明かしがなされ、礼拝が行われました。
イエス様も安息日には、会堂にやってきていましたね。
会堂は、それ以外にも、普段の日にも祈りに来たり、交わったり、そこで教育がなされたり、結婚式なども行われました。
ユダヤ人の生活と会堂は切り離せません。
クリスチャンにとって、教会が必要なのと同じです。

ユダヤ人たちは、散らされて行っても、そこで集まって、みんなでまず会堂を建てて、そこで礼拝を守りました。
彼らの生活は、礼拝なしにはあり得ないのです。

みなさん。ユダヤ人たちほど礼拝を重んじる民族はありません。
アブラハムは、祭壇を築いて、主を礼拝しました。
イサクもヤコブもそうです。
イスラエル民族の先祖は、常にどこにいても、主を礼拝する場所を築いたのです。

イスラエルの民は、荒れ野を旅するときも、幕屋を作って、主を礼拝しました。
約束の地に導かれた後は、神殿を建てて、主を礼拝したのです。
ユダヤ人にとって、礼拝のない生活はあり得なかったのです。

これは私たちクリスチャンも同じです。
クリスチャンにとって、礼拝のない生活はあり得ません。
礼拝を守ることが私たちの祝福だからです。

礼拝は私たちと神様とのライフラインであり、パイプラインです。
礼拝を通して、神様の祝福が流れます。

ユダヤ人たちにとって、礼拝は生活の中心でした。
おそらく百人隊長は、ユダヤ人たちと同じように、生活の中に礼拝が入ってきたのだろうと思うのです。
彼は、礼拝を守ることによって、真実の世界に目が開かれました。
彼の心に感謝が生まれ、その感謝が献金となりました。
そして、会堂のために、彼は多くの捧げ物をしていったのです。

みなさん。礼拝とは何でしょうか。
礼拝とは、神様との出会いです。
礼拝を通して、私たちは神様と関係を結んでいくのです。

なぜ、聖書は偶像礼拝を禁止するのでしょうか。
それは、偶像礼拝が偶像と関係を結ぶことになるからです。
偶像礼拝によって、悪霊と関係を結ぶことになるからです。
ですから、聖書は偶像礼拝をしてはいけない、と言うのです。

さて、今朝の説教題は「まことの礼拝者」です。
今日、登場する百人隊長の姿の中に真の礼拝者の姿があります。
彼は礼拝を重んじる人でした。
彼は神様に近づく人でした。
みなさん。神様は礼拝する者を求めておられます。
この百人隊長の姿こそ、礼拝者の良きモデルです。
彼こそ、まことの礼拝者であり、私たちが目指すべき信仰者の姿です。

みなさん。まことの礼拝者は、神様に近づきます。
神様に近づくならば、神様は近づいてくださる。
これが礼拝です。

彼は、自分の部下が病気になった時、イエス様を求めました。
彼は、自分が異邦人であるので、ユダヤ人の長老にお願いして、イエス様にヘルプを求めたのです。
ここにも彼の謙遜な姿があります。
真の礼拝者とは、謙遜な人です。
謙遜な者には、神様の祝福は注がれます。

神に近づきなさい。そうすれば神が近づいてくださる。
彼がイエス様を求めたとき、イエス様に近づいていきます。
そして、出会いが起こります。
彼は、直接、イエス様に出会っていません。
しかし、イエス様の言葉に出会うことは、イエス様に出会ったことと同じです。

みなさん。私たちも同じです。私たちも地上におられたイエス様に直接会うことはありません。しかし、御言葉を通して、礼拝を通して、イエス様に出会うことができます。
イエス様は求める者に出会ってくださるお方です。

7:6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
7:9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」


まことの礼拝者は、黙想する人です。
彼は、長老たちがイエス様のところに行っている間に、黙想したのです。
自分は異邦人であり、とてもイエス様を迎え入れるような存在ではない。

ただ、ひと言、あの方が言ってくださったら、きっと僕は助かるに違いない。
それだけの力を持っておられるお方だ。

彼は、イエス様の姿を黙想し、そして、それを適用します。
実践したのです。

友達を遣いにやって、「ひと言おっしゃってください」と、主の言葉を求めたのです。
彼は、主の言葉には力があり、その言葉に従うときに、奇跡が起こると信じたのです。

みなさん。これが真の礼拝者の姿です。
真の礼拝者は、イエス様の姿を黙想する人です。
イエス様がどんなお方であるかを黙想する人です。

そして、彼は、ただひと言あれば、大丈夫だという確信が与えられたのです。

彼は、自分が部下に命じれば、部下は言うことを聞く。
それは私に権威があるからだ。
イエス様は権威を持っておられる。
そのお方が命じられることを行おう。
そうすれば何かが起こる。
そう信じたのです。
これがイエス様をして、「これほどの信仰を見たことがない」と驚かせた信仰です。

みなさん。これがまことの礼拝者の信仰です。
主に近づき、主の言葉を求め、主の言葉を黙想し、主が命じられた言葉を実践する。
その時に、神様の御業が起こったのです。

7:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

先週のセミナーの中で、こんな話を聞きました。
オンヌリ教会には、父の学校というのがあります。
「父が生きると家庭が生きる」をスローガンにした学びであり、今、世界的に注目され、多くの父親がこの学校に参加することにより、家庭が回復しています。

一人の中年の男性が参加したそうです。
実は、父の学校では宿題がでます。奥さんに手紙を書いたり、娘と二人でデートしたり、奥さんにハグをしたり、という。
彼は戸惑いました。
奥さんを抱きしめるように。これは宿題であり、いわば命令です。
実は、彼は一度も奥さんをそのように抱きしめたことがなかったそうです。
夕食を準備している奥さんを、後ろからガバッと抱きしめたそうです。
すると、奥さんはびっくりして固まってしまいました。
どうしたの、突然、と聞かれれて、「いや、これ宿題」と答えました。

宿題なのに、奥さんは何か嬉しそうだったそうです。
そして、その夜、再び奥さんをハグしました。
その時、彼は「これは宿題ではない」と言ったそうです。
その瞬間、奥さんの目から涙がボロボロとこぼれ落ちたそうです。
そこから家庭に回復が起こったそうです。

みなさん。最初は宿題でも良いのです
神様の命令は宿題です。
神様の宣言は、みんな宿題です。
喜んでできないこともあります。
しかし、主が言われるので、主のひと言を聞いて、勇気を持って実践するときに、神様の御業が起こるのです。

みなさんが、主のひと言を聞いて、それを実践し、神様の御業を体験することができるように、イエス様の御名によって祝福します。
お祈り致します。