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説教 「砂の下に隠れている岩」
『砂の下に隠れている岩』 (ルカ6章46−49) (2008年・5月4日・ベテル清水教会 聖日礼拝)
イソップ物語に三匹の子豚の話があります。
三匹の子豚の兄弟が自分たちの家を建てました。 長男は、わらで、次男は、木の枝で家を建てます。 二人とも、手軽な材料を用いて、豚だけにトントン拍子で簡単に家を建てていきます。 一方、三男は、時間をかけて、れんが作りの家を造ります。
そこへオオカミがやって来て、三匹の子豚はとんだ災難に見舞われます。 最初、オオカミは、長男を襲いました。 長男の豚は、わらの家に逃げるのですが、オオカミがその家をふーっと一息すると、家はぶっとんでしまいます。 長男は、豚だけにとん走して、次男の木の家に逃げ込みます。 しかし、この木の家も、オオカミが一吹きすると、吹っ飛ばされてしまいます。 家を失った二匹の子豚は、弟のれんがの家に逃げ込みます。
そこへオオカミがやってきて、同じように、ふーっと一息するのですが、その家はビクともしません。 結局、煙突から忍び込もうとしたオオカミが、煮えたぎる鍋の中に落ちて、食べられてしまうという、話ですね。
今日のテキストに記されているイエス様のたとえは、この三匹の子豚の物語に似ています。 おそらく、この物語の背景には、今日のイエス様のたとえ話があるのだろうと思います。
今朝は、有名なこのたとえ話をご一緒に学びたいと思います。 もう一度、ルカによる福音書6章をお開きください。
6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
韓国の教会に行きますと、みんなで一斉に祈る時に、最初に「主よ、主よ、主よ」と三回、叫んで祈るということが良く行われます。
「主よ、主よ」と呼びながら、というのは、祈りながらということです。 私たちは韓国人のように「主よ、主よ」と叫んで祈ることは、あまりないかもしれませんが、祈りの中で「主よ、主よ」と言って、主に呼びかけて祈ることは多いと思います。
私たちが「主よ」と言って、祈りの中で、主の名を呼ぶ時には、ほとんどの場合が、「主よ、祝福してください。助けてください。守ってください。こうしてください。ああしてください、というような願望の祈りです。
イエス様は、主に祈り求める者に対して、こう言われたのです。 6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
あなたたちは私を求めながらも、私が言うことを聞こうとしない。 私が言うことを守ろうとしない、ということです。 それは、まるで病気の治療を求めて、病院に行きながらも、医者の言うことを聞かない患者のようなものです。 要求はするけど、責任を果さない。 権利は主張するけど、義務は果たそうとしない。 そういうことがないでしょうか。
イエス様は、弟子たちに対して、私たちに対して、「あなたたちはそうであってはならない」と言われるのです。
私の元に来ることは大切です。 私の声を聞くことも大切です。 しかし、それだけではダメだ。 私の言葉に従う者になりなさい、と教えるのです。 そうすれば、あなたはどんなに大きな試練が襲っても、耐え抜くことができる、と教えているのです。
6:47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 6:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
今から40年前、私が小学校に入学する前後のことですが、母に連れられて、大阪の四条畷にある教会の教会学校に通っていました。 ちょうど優輝君ぐらいの時ですね。
その頃、こんな歌を良く歌っていました。 おろかな人が 家を建てた 砂の上に 家を建てた おろかな人が 家を建てた 雨がふってきた 雨が降り 水が増し、雨が降り 水が増し、雨が降り 水が増し その家はぺっちゃんこ!
賢い人が 家を建てた 岩の上に 家を建てた 賢い人が 家を建てた 雨が降ってきた 雨が降り 水が増し、雨が降り 水が増し、雨が降り 水が増し その家は大丈夫!
この歌を知っている人はおられますか?
三匹の子豚の物語では、家を建てる時の材料が問題となりました。 わらを使っても、木の枝を使っても、家は建てられます。 もし、オオカミが来なければ、その材料で建てても問題はなかったでしょう。 しかし、オオカミが来たならば、わらの家、木の枝の家では、持ちこたえることはできなかったのです。
私たちは生きていくために必要なものは、衣・食・住だと言われます。 この三つがあれば、最低限の暮らしはできます。
「ホームレス中学生」という本がベストセラーになりましたが、 このお笑い芸人は、中学生の時、父親から突然「解散」と言われて、家を失いました。 家を失う、住むところを失うということは、大変なことです。
家というのは、とても大切な空間です。 家は、食事の場であり、団らんの場です。 家は、睡眠の場であり、ホッとくつろげる場所です。 その場所を失うということは、大変なことです。
数年前、マンションの耐震偽装問題が世間を騒がせました。 耐震強度というのは、専門家にしか分かりません。 その後、調査の結果、次々と偽装マンションが発覚し、完成したばかりのマンションまでもが、再建築を余儀なくされるというケースもありました。
背に腹は代えられません。 わらの家も木の枝の家も、オオカミが来なければ問題はないでしょう。 偽装されたマンションも、地震が起こらなければ、問題はないでしょう。 しかし、地震が起こらないという保証はないのです。 特に、最近では大きな地震が頻発しており、もし、そこに住み続ければ、いつも不安を抱えつつ生活しなければなりません。
外見を見ると、全く問題のないようなマンションです。 しかし、それは砂上の楼閣。砂の上に家を建てた家のようなものですから、嵐が来る前に、取り壊されていったのです。
以前、外国で大きなマンションが倒壊しました。 この時、倒壊したビルの柱のコンクリートの中からドラム缶などの廃材が見つかって問題となりました。 建築コストを抑えるために、業者の手抜き工事が、マンションが倒壊したことによって発覚したのです。
家は、土台が重要です。 屋台骨がしっかりとしていないと、オオカミがやって来たときに、問題が襲ってきたときに、洪水が押し寄せてきたときに、耐えられないのです。
今日のたとえは、マタイにも出てきます。 マタイでは、岩の上に土台を置いて家を建てた人を、賢い人。 土台なしで地面の上に家を建てた人を、愚かな人と呼んでいます。
賢い人は、家の上に家を建てた人です。 岩を土台とする人は、賢い人です。 愚かな人は、地面の上に土台なしに家を建てたとあります。 地面の上とは、マタイでは砂の上となっています。 砂の上に家を建てる人は、愚かな人だというのです。
今日の説教題は「砂の下に隠れている岩」です。 土台となる岩は、砂の下に隠れているのです。 岩は砂の下に隠れて見えないのです。 砂の下を深く掘らなければ、岩に達しないのです。
賢い人とは、砂の下に隠れている岩を知っている人です。 そして、砂の下に隠れている岩を土台とする人です。 愚かな人とは、砂の下に隠れている岩を知らない人です。 深く掘らないで砂の上に家を建てる人。 それが愚かな人です。
パレスチナ地方では、夏には川の水がなくなります。 すると、乾いた砂地がたくさん出てきます。
家を建てるとき、みんなこの砂地の上に家を建てるのです。 賢い人は、その砂地の下にある岩盤に到達するほどに掘り下げて、土台を築きます。 そうすれば、洪水が襲ってきても、家は流されないのです。
しかし、愚かな人は、岩盤まで掘り下げることなく、土台なしに家を建てるのです。 それは、三匹の子豚のわらの家、木の枝のような家です。 オオカミが来なければ、壊されることはありませんでした。 しかし、オオカミが来たときに、洪水が襲ってきたときに、砂の上に家を建てた人は、流されてしまうのです。
みなさん。表面的には、みんな砂の上に家が建っているのです。 深く掘り下げて、岩を土台としているかどうかは、外側からは区別がつきません。 それは、偽装問題で強度不足のマンションとそうでないマンションとでは、見分けがつかないのと同じです。 外側から見ても分からないのです。 見えない部分を調べなければ、わからないのです。
しかし、やがてその見えない部分が問われる時が来ます。 土台が問われる時が来ます。 冬になり、雨が降り、川の水かさが増し、川が氾濫し、家が水に浸かります。 その時に、深く掘り下げずに、土台を築かなかった家は、流されてしまうのです。
みなさん。大切なことは、見えている部分ではありません。 見えない部分です。 砂の下に隠れている岩を土台としているかどうか。 それが問われるのです。
イエス様は、御言葉を聞いて、行う人が、砂の下に隠れている岩を土台にしている人だ、と言われるのです。
みなさん。御言葉を行うというのは、岩の部分です。 岩の部分は、見えない部分です。 木で言えば、根の部分です。 根が大地に下ろしているかどうかは、実は外側からは判断が難しいのです。
昨年、義理の兄が来て、家の前の木を切り倒してくれました。 切り落とした木は、加茂子姉のご主人がみんな燃やしてくれたのですが、切り株は、燃やさずにおいていて、腰掛けのようにしています。
外から見ると、根がある切り株のように見えます。 しかし、実際は、一つを除いて、みんな根がありません。 手で押すと簡単に倒れてしまいます。 根のある切り株は、いくら手で押しても、動じません。 大地にしっかりと根を下ろしているからです。
みなさん。私たちの信仰は、どちらの切り株でしょうか。 外側から見ても、それは分からないのです。 「主よ、主よ」と言って祈っていても、根がなければ、土台がなければ、嵐がやって来たときに、倒れてしまうのです。
みなさん。問題や試練は、私たちが何を土台としているかを明らかにしてくれます。 信仰とは、砂の下に隠れている岩を発見することです。 その岩とは、イエス・キリストです。 イエス・キリストは、砂の下に隠されている岩です。 人の目には岩は見えません。 しかし、私たちがこのお方を土台として生きるならば、嵐が襲ってきたときに、土台のあるなしが明らかになるのです。
私はこの譬えを通して、いつも教えられることがあります。 それは、賢い人も、愚かな人も、同じように洪水を体験しているということです。 岩の上に家を建てた人には、洪水は来なかったと言うのではありません。 イエス様の言葉を聞いて、行う人は、洪水に遭わないということが言われているのではないのです。
たとえ洪水にあっても、岩を土台としている人は、耐え抜くことができるということが言われているのです。
イエス様の一番弟子は使徒ペトロです。 彼の名前は、元々は「シモン」でした。 シモンとは、風に揺れる葦という意味です。 まさに、シモンは砂の上に建てられたような人物でした。
問題があればすぐに倒れてしまう弱さを持つ人でした。 私たちもシモンと同じです。 みんな砂の上に立っているのです。
しかし、ペトロはイエス様に出会って、「ペトロ」と名付けられました。 ペトロとは「岩」という意味です。 彼は、砂の下に隠れている岩を発見したのです。 彼を支える岩を発見したのです。
この岩なるイエス様が弱いシモンを支えるのです。 この岩なるイエス様が弱い私たちを支えるのです。
ダビデは詩篇の中で、神様を「岩なる神」と呼んでおります。 イエス・キリストは、砂の下に隠された岩です。 このお方を土台として、このお方に深く根を下ろして歩みましょう。 御言葉を聞くだけではなく、黙想し、実践する者となりましょう。 そして、御言葉によって支えられる人生を歩みましょう。 お祈り致します。
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