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ルカ8:40-56「信仰」

◇2012年7月31日(火)
●ルカ8:40-56「信仰」

●御言葉
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(8:48)

●黙想
信仰と知識は違います。

この飛行機はアメリカに向かうと知っていても、

実際に乗らなければ、アメリカに行くことはできません。

イエスは救い主だと知っていても、

信じて近づかなければ、救いは得られません。

長血を患っていた女性は、

イエスは救い主であると信じ、主に近づき、

主に触れ、癒しと救いを得ました。

どんな問題が起こっても、

主を信じ、主に近づき、祈り求める人は、

救いと平安を得ます。

今日も祝福がありますように。byバルナバ
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ルカ8:26-39「家の祝福」

◇2012年7月30日(月)
●ルカ8:26-39「家の祝福」

●御言葉
「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。(8:39)

●黙想
家に恵みを持ち帰っていますか。

墓場を住まいとしていた男は、

イエス様に出会い、悪霊から解放され、救われました。

イエス様は彼に、家に帰り、

神の御業を証しするようにいいました。

変えられた男の姿を見て、家族はどれほど喜んだことでしょうか。

主に出会い、神の御業を体験することは、

家族の喜びであり、祝福です。

あなたの家に讃美が満ちあふれるように。

御名によって祝福します。byバルナバ

『信仰によって実現される約束』

『信仰によって実現される約束』
(ローマ信徒への手紙4章13節~25節)
(2012年7月29日 ベテル清水教会 聖日礼拝)

先週、フェイスブックを見ていると、マザー・テレサのこんな言葉が紹介されていました。

思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。

思考、思いや考えは言葉になり、言葉は行動になります。
さらに行動は習慣になり、習慣が性格を形作ります。
そして、性格は運命になるというのです。

良い運命を願わない人はいません。
誰でも良い人生を送りたいと願っています。
良い運命になるためには、良い人生を歩むためには、良い思い、良い考えを持つことから始める必要があります。

この聖書というのは、神の言葉であり、そこには神の思い、神の考えが満ちています。神の思い、神の考えは良い思いであり、良い考えです。
神の思い、神の考えを黙想すれば、運命は変わります。人生は変わります。

かつてちいろば先生こと、榎本先生は言いました。
「朝の15分があなたの運命を変える」と。
朝の15分とは、神の言葉である御言葉を黙想し、祈る時間です。
15分だけでもいいからディボーションしなさい。QTしなさい、というのです。
そうすれば、運命は変わる、人生は変わる、というのです。

御言葉を黙想すれば、言葉が変わり、
言葉が変われば、行動が変わり、
言葉が変われば、習慣が変わり、
習慣が変われば、運命が変わる、人生が変わるのです。
聖書の御言葉には、私たちの運命を変える力があるのです。

今朝も、思いと考えを変え、やがて運命をも変えていく力のある聖書の御言葉をご一緒に学びたいと思います。

さて、ローマ信徒への手紙をご一緒に学んでいますが、今日は4章13節以下です。
小見出しに「信仰によって実現される約束」とあります。
今日の説教のテーマです。

みなさん。神の約束は、自動的に実現しません。
神の約束は、棚ぼた式に実現しません。
神の約束は、私たちの力や努力によっても実現しません。

神の約束は、信仰によって実現します。
神の約束が私たちの現実になるには、信仰が必要です。

今朝は、信仰の父と呼ばれるアブラハムの信仰を学びます。
もう一度13節からお読みします。

4:13 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。

アブラハムは創世記に登場する人物です。
アブラハムが生きていた時代には、まだ律法はありません。
律法が登場するのは出エジプト記です。モーセの時代です。

神様がアブラハムに約束を与えたのは、モーセに律法が授けられる500年も前の話です。

パウロは、神の約束は、信仰に基づいている。
なぜなら、神の約束が与えられた時は、まだ律法は与えられておらず、
律法に基づけるはずがないのです。

さらに、パウロは言います。
4:14 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。

もし、律法が与えられた時点で、神の約束が、信仰ではなく、律法に基づくようになったのであれば、もはや信仰は無意味になります。

さらに、律法に基づくのであれば、イスラエルの民は、律法を破っているのだから、神の約束は廃止されたも同然なんだ、というのです。

4:15 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。

ここで、パウロは再び律法の役割を語ります。
律法の役割は、罪を指摘し、神の怒り、裁きを招くものだ、と。
律法によっては、誰も義とされない、救われることはない。
このことは、もう何度も繰り返してお話ししましたね。

パウロは言います。
4:16 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。
4:17 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。

わたしたちは御国の世継ぎ、という讃美があります。

わたしたちは御国の世継ぎ。御子イエスと共に
わたしたちは神の家族。わたしたちは一つ

私たちクリスチャンは、信仰によって、御国を受け継ぐ者です。
私たちは神の国の相続者、相続人です。

一個所聖書を開きましょう。エフェソ1章 P352
1:11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。
1:12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。
1:13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
1:14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
みなさん。わたしたちは御国の世継ぎです。
神の国の相続人です。

この相続の権利は、私たちの行いによるのではなく、神の行いによるのです。
神様がイエス・キリストを十字架につけるという、神の行いによって、相続の権利が与えられたのです。

私たちに必要なのは、神の約束を信じ、従う、ということです。
これが信仰です。
これがアブラハムの信仰です。

アブラハムは、神の約束を信じ、神に従いました。
その結果、神の約束は現実になった。
これがアブラハムの信仰であり、アブラハムの祝福です。
私たちクリスチャンは、このアブラハムの信仰、アブラハムの祝福の継承者です。

パウロはこのアブラハムの信仰について具体的に語ります。

4:18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。

みなさん。希望があって信じることは簡単です。
希望の兆しがあるときには、そこに望みを置くことができます。
しかし、希望の兆しすらもないのに、なお望みを抱いて信じることは簡単ではありません。

希望の兆しがなくても信じる。
それが信仰です。
たとえそうでなくても信じる。
それが信仰です。

アブラハムには子供がいませんでした。
アブラハムとその妻サラも、若かったときには、まだ希望の兆しがあったでしょう。
しかし、主が「来年の今ごろ、あなたの妻サラに男の子が生まれる」と言われた時、アブラハムは99歳です。サラは89歳です。
私の母親のような年齢ですよ。

子供を宿すには、希望するすべもない年齢ですよ。
天幕の入口で、この話を聞いたサラは思わず笑いました。
そんなこと「サラサラない」と思ったのでしょう。

しかし、アブラハムは、なおも望みを抱いていたのです。

アブラハムの希望の兆しは、主の約束です。
主の言葉に、望みを抱いていたのです。

みなさん。信仰とは、主に望みを置くことです。
信仰とは、主の言葉、主の約束に、望みを抱くことです。

彼は、かつて主が語られた言葉に望みを抱いていました。
創世記15章5節をお開きください。P19

15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

みなさん。アブラハムは、主を信じました。
そして、この信仰が彼の義と認められたのです。

これがアブラハムの信仰です。

アブラハムは何を信じたのでしょうか。
アブラハムの信仰は、神の存在を信じる信仰ではありません。
神の存在を信じる信仰が、彼の義と認められたのではありません。

みなさん。神様の存在を信じている人が、義とされるのではありません。
存在しておられる神様が語られる言葉、語られた約束を信じる信仰。
それが、義とされる信仰です。

みなさん。アブラハムの信仰とは、神の約束を信じることです。
希望の兆しが見えなくても、主に望みを置き、神の約束に望みを抱く信仰。
それがアブラハムの信仰であり、聖書が教える信仰です。

アブラハムもサラも老人です。後期高齢者です。
老いが進み、百歳が近づきました。
「あなたの子孫は星の数ほどになる」
この神の約束と自分の現実の間には、ギャップがありました。

現実を見れば、子を宿すなんて不可能な世界です。希望の兆しはありません。
しかし、アブラハムは、主に望みを置いたのです。
主の約束に望みを抱いたのです。
これがアブラムの信仰です。

4:19 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
4:20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
4:21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
4:22 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。

みなさん。今日、大切なことを学んでいます。
信仰とは、現実を見て、信じるのではありません。
信仰とは、約束を見て、信じるものです。

老人が子を宿す。
あり得ない世界です。
あり得ない世界に生きていながら、
なお、神の約束を信じて待つ。
これがアブラハムの信仰です。

みなさん。聖書にはたくさんの約束が満ちています。
わたしは病の癒しのために祈る時に、いつもこう祈ります。
「信じる者にはこのようなしるしが伴う。病める者に手を置けば癒される」と。
現実を見るのではなく、神の約束を信じて祈ります。
神の約束を告白して祈ります。

みなさん。子どもたちの祝福を祈ってください。
目に見える現実に目を奪われないでください。
私たちは見えない約束に目を向けて祈る必要があります。
私たちは祝福の基です。
私たちを通して、子孫も祝福を受けるのです。
主に望みを置き、主の言葉を宣言して祈ってください。

今年度の御言葉は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」です。
これは神の約束です。

みなさんの家族はどうでしょうか。
現実を見ないでください。
現実には、教会に来る兆し、救いに導かれる兆しがなくてもいいのです。

兆しがあるから希望を抱くのではなく、
主の約束があるから希望を抱いて祈るのです。

パウロはいいました。

4:23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、
4:24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
4:25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

みなさん。復活を信じていますか。
復活は非現実的な話です。

現実的には死人が復活するなんて、あり得ないでしょう。
みなさん。信仰とは、現実的なことを信じるのではありません。
信仰とは、神の約束を信じることです。

神様は、わたしたちの主イエスを死者の中から復活させられたのです。
私たちの贖いとなり、罪と死と悪魔に勝利してくださったのです。

ただ、私たちは、このキリストの復活を信じるだけで、義と認められるのです。
現実を見ればあり得ないことかも知れない。
しかし、約束を見ればあり得るのです。
約束を信じれば、やがて現実になるのです。

みなさん。聖書は神の約束の宝庫です。
ですから、むさぼるように聖書を読みましょう。
神の思いを、我が思いに刻みつけましょう。

聖書を読めば、私たちの思考は変わります。
聖書を読めば、私たちの言葉は変わります。
聖書を読めば、私たちの行動は変わります。
聖書を読めば、私たちの習慣が変わります。
聖書を読めば、私たちの性格が変わり、運命が変わるのです。

アブラハムの信仰を模範とし、
主と主の言葉に信頼し、神の約束は必ず実現すると信じ、共に歩んでいきましょう。

お祈りいたします。

ルカ8:16-25「信頼」

◇2012年7月29日(日)
●ルカ8:16-25「信頼」

●御言葉
弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になった。(8:24)

●黙想
あなたの信仰はどこにありますか。

弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」という主の命令に従っていました。

その舟には主が共にいて、主は安らいでいました。

にもかかわらず、彼らは風と波を見て恐れたのです。

クリスチャンの人生の舟には、主が同船しています。

たとえ嵐が吹いても、嵐を静める主が共におられます。

主と主の言葉に信頼する。

これが信仰です。

今日は日曜日です。

共に主を礼拝しましょう。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ8:1-15「QT」

◇2012年7月28日(土)
●ルカ8:1-15「QT」

●御言葉
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。(8:15)

●黙想
毎日、祈っていますか。

祈ることは、心を耕すようなものです。

祈りは頑なな心を砕き、謙遜にします。

毎日、聖書を読んでいますか。

聖書を読むことは、心に良い種を蒔くようなものです。

耕された心に、御言葉を蒔き続けるならば、

人生に良い実(神の祝福)が実ります。

祈りと御言葉は、思いを変え、

言葉を変え、行動を変え、習慣を変え、

人格を変え、人生を変える力の源だからです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ7:36-50「赦し」

◇2012年7月27日(金)
●ルカ7:36-50「赦し」

●御言葉
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。(7:47)

●黙想
自らの罪深さを自覚していますか。

彼女の犯した罪の量が多かったので、

赦された量も多かったのではありません。

実際、神様の目から見れば、

彼女の罪よりも、

自らを義とするファリサイ派の人々の罪の方が大きいと言えるからです。

彼女が多く赦され、多く愛せたのは、

罪の自覚の大きさによります。

パウロも自らを「罪人の頭」と自覚し、

多く赦され、多く愛せたのです。

自らの罪を認め、

そのすべての罪を赦される神様の愛の大きさに気づく人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ7:24-35「御心」

◇2012年7月26日(木)
●ルカ7:24-35「御心」

●御言葉
しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。(7:30)

●黙想
神の御心は、

すべての人が悔い改め、神に立ち帰り、

魂の救いを得ることです。

バプテスマのヨハネ、救い主イエスが現れたのは、神の御心です。

御心を拒む人は、神に敵対し、

やがて救い主をも十字架に付けていくのです。

ここに罪の本質があります。

罪とは、神の御心を拒むことなのです。

悔い改め、罪赦され、神の御心に従う人となりますように。

御名によって祝福します。byバルナバ

ルカ7:11-23「出会い」

◇2012年7月25日(水)
●ルカ7:11-23「出会い」

●御言葉
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。(7:13)

●黙想
イエス様に会いましたか。

一人息子を亡くし、

悲しみの中にあった未亡人の女性は、

イエス様と出会い、慰められ、奇跡を体験します。

主はあなたを見て、あなたを憐れみ、

あなたに「もう泣かなくともよい」と声をかけられます。

イエス様に出会った人は神の恵みを味わいます。

イエス様に躓かない人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ7:1-10「愛と謙遜」

◇2012年7月24日(火)
●ルカ7:1-10「愛と謙遜」

●御言葉
長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」(7:4-5)

●黙想
愛する人は愛され、謙遜な人は祝福され、

多くの友と神の祝福を得ます。

百人隊長は「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」と願いました。

主は彼の謙遜さと、

主の権威を信じる信仰に驚き、

彼の部下はすぐに癒されたのです。

与える人は多く与えられる。

ここに神の祝福があります。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ6:39-49「言葉」

◇2012年7月23日(月)
●ルカ6:39-49「言葉」

●御言葉
善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。(6:45)

●黙想
あなたの心の倉にあるものは何ですか。

言葉は心の鏡です。

聖書の御言葉は神の心の反映です。

御言葉は良いものであり、

御言葉を心に蓄える人は良い実を結びます。

人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる者です。

御言葉を心の倉に蓄える人は、

心が変わり、言葉が変わり、

態度が変わり、生き方が変わり、

周りが変わるのです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ダビデが得たもの

『ダビデが得たもの』
(ローマ信徒への手紙4章6節~12節)
(2012年7月22日 ベテル清水教会 聖日礼拝)

聖路加病院の院長である日野原重明さんは100歳を越えても、まだ現役で働いています。
多くの著書を書き、たくさんの名言を残され、ネット上に「日めくりカレンダー」として、毎朝、御言葉メールのように発信されています。

先週は、こんな言葉がありました。
「ひとの苦しみに共感出来る人は、不幸に負けません。」
「家の外へ出てごらんなさい。友が見つかります。」
「生き方のモデルを探し、モデルに学びましょう。」
「生まれてよかった。そう思えることが人生に勝つことです。」

みなさんは、生まれて良かった、と思えているでしょうか。
クリスチャンになって良かった、と思えているでしょうか。
もし、そう思えたら、人生の勝利者です。

日野原先生はこう言っています。
終わりよければすべてよし
人生の99%がつらくても、最後の1%が良ければ、人生全体が良かったということです。最後の人生を良くするためには、体も心も上を向いて歩くことです。

人生はエンディングが重要です。
映画はクライマックスが、ドラマは最終回が重要です。
ハラハラドキドキしながらも、最後はハッピーエンドで終わる。
そうすると、心は晴れ晴れします。すっきりしますね。

私たちの人生も一つのドラマです。
私たちは自分の人生の主人公です。
人生のドラマがハッピーエンドで終わるためには、すべてを益に変えてくださる神様を見上げる必要があります。
私たちの人生の脚本家である神様を信頼し、委ねる必要があります。

ギリシャ語で「人間」と言う言葉は、「アンスロポス」といいます。
それは「上を向く」という意味があります。
「上を向いて歩こう」という歌がヒットしましたが、聖書的に言えば、本来、人間は上を向いて歩く存在として、神様に造られているのです。
上を向くとは、神を見上げることです。神を仰ぐこと、神を畏れること、神を礼拝することです。これが人間の本分です。

私たちは問題が起こると、うつむいてしまいます。下を見ます。
また、後ろを見ます。後悔します。

失敗をしたり、挫折をしたり、傷ついたら、下を見ます。
後ろを振り返り、後悔します。
大切なのは、その後です。

そこで我に返り、本心に帰り、本分に戻り、上を見上げることが大切なのです。
上を見上げるとは、神を慕い求めることです。
神の前に手を上げることです。神にギブアップすることです。

人生にギブアップするのではなく、神にギブアップする。
これが上を見上げるということです。

詩編121編
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。

今朝も、一緒に上を見上げ、主の御言葉に耳を傾けましょう。

さて、ローマ信徒への手紙をご一緒に学んでいますが、先週は「アブラハムは何を得たのか」というテーマで御言葉を学びました。

アブラハムは何を得たのでしょうか。

アブラハムは、第一に「神の恵み」を得ました。
アブラハムは、信仰によって、神の恵みを得ました。

信仰というのは、受け取ることです。
神様が準備してくださったものを「ありがとうございます」と言って受け取ること、受け入れる事です。

みなさん。人間の赤ちゃんは、母親の胎内に宿った時から、一歳ぐらいまでは、母親の愛の中で育まれていきます。

赤ん坊は、無力です。
自分でミルクを準備したり、おしめを準備したりできません。
すべて親が準備し、必要は満たされます。

赤ちゃんは、ありのまま愛されています。
母親が与えてくれるミルクを飲んで、すくすくと成長するのです。

人間は、この世界に誕生した時から、神様の愛を受けています。
神様は、人間が生きていくために必要なものを備えられたのです。
私たち人間は、神の恵みによって生かされている。
そのことを忘れてはならないのです。

神様の愛は、ユダヤ人限定ではありません。
神様の愛は、クリスチャン限定でもありません。
神様の愛は、すべての人に注がれています。

神様は、私たちがこの世に生きていくために必要なものをあらかじめ備えられました。
それだけではありません。

神様は、私たちが永遠に生きるために必要なものまでも、あらかじめ備えてくださった。
それが2000年前のキリストの十字架です。

ヨハネ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

救い主は神様からの最高のプレゼントです。
この救い主を、ただ信じるだけで、受け取るだけで、私たちは神の恵みである救いを得ることができる。
これが福音です。ゴスペル。良い知らせです。

先ほど、「主イエス神の愛」と讃美しました。
主イエス神の愛、十字架に命捨てた
主イエス神の小羊 永遠のゆるし与える
今、受け取ります。あなたの愛をあなたの赦し
今、受け取ります永遠の救いと癒し
命に溢れ祈る すべてを捧げます主よ、すべてを捧げます主よ

神の恵みは、用意されているものを、ただ受け取るだけです。

今日、三人の子どもたちが洗礼を受けます。
今月、二回も洗礼式がある。何という恵みでしょうか。

準備会の時、子どもたちに聞きました。
「イエス様を救い主と信じますか」 「はい。信じます」

イエス様は、幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない、と言いました。
イエス様は、子どもたちが、わたしのところに来るのを妨げてはならない」と言われました。

みなさん。神の恵みは、すべての人に備えられています。
子供も例外ではありません。
ただ、信じ、受け取るだけで与えられる。これが神の恵みです。

アブラハムは、信仰によって、この神の恵みを得たのです。
アブラハムは、信仰によって、義とされ、救われたのです。

アブラハムは何を得たのか。
第二番目。
アブラハムは、「神の祝福」を得ました。

みなさん。クリスチャンは、神の恵みを得て終わりではありません。
神の恵みと共に、神の祝福を得ることができます。
神の祝福とは、神の報いです。
この祝福に与るためには、「そうすれば」という条件がつきます。

聖書の中に「そうすれば・・・こうなる」という言葉がたくさんあります。

神の祝福は、神の恵みと、異なります。
神の恵みは、私たちの行いとは関係なく与えられるものです。
雨が降る、太陽が昇る。これも神の恵みです。
すべての人にも神の恵みは注がれています。

救い主はすべての人に与えられた神の恵みです。
ただ、この救い主を信じるだけで、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられ、天国が保証されるのです。
これが神に義とされるという恵みの世界です。

神の恵みには条件がありません。
ただ受け取るだけなのです。
イエス様を信じ、洗礼を受けるだけで、与えられる恵みです。

しかし、神の祝福には条件があります。
「そうすれば」
つまり、神の恵みを受け、さらに神に従うことによって与えられる恵みです。
これが神の祝福なのです。神の報いなのです。

アブラハムは神の恵みを受け、そして、神に従ったのです。
その結果、神の祝福を得たのです。神の報いを受けたのです。
アブラハムは祝福の基となり、その子孫は繁栄し、神の約束は現実となったのです。

私たちクリスチャンも同じです。
私たちが義とされるのは、神の恵みです。
神の恵みによって、罪が赦され、神の子とされ、天国が約束されます。

私たちは神の恵みを受け、アブラハムのように、神に従って歩むならば、神の祝福を受けるのです。
祝福の基となって、家族や周りが祝福されていくのです。
あなたの人生に祝福の実を結びなさい。
これが神様が私たちに願っておられることです。

アブラハムが得たもの。
それは「神の恵み」であり、「神の祝福」です。

ダビデも同じです。
4:6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。

ユダヤ人にとって、ダビデは信仰の勇者です。
彼らは、ダビデのような王の出現を願っていました。
彼らが讃美している詩編の多くは、ダビデの歌です。
このダビデも、行いによらずに神から義と認められた、というのです。

神様はダビデをサウルに代わる新しいイスラエルの王に選びました。
ダビデが選ばれたのは、神の恵みでした。

ダビデは、神の恵みによって王になったのです。
ダビデは、神に従い、大いに祝福を受けました。

彼は、当時、最大の的であったペリシテ人と戦い、その武将であるゴリアテを破ります。
さらに、次々と敵を打ち破り、イスラエル王国を築き上げたのです。

みなさん。神に従い続ける人は、神の祝福を受けます。

しかし、従い続けることは簡単ではありません。
イスラエルの民も、従えば祝福されるのに、従うことができず、祝福を失いました。
ダビデも同じです。
ダビデも大きな過ちを犯します。

ある日の夕暮れ、ウリヤの妻であるバト・シェバが水浴をしているのを見て、彼女を召し入れ、床を共にしてしまったのです。

ダビデは、彼女は身ごもったことを知り、何と、夫を戦地の激しいところに送って、戦死させ、自分の妻にしたのです。

これは御心に反することでした。
みなさん。クリスチャンになっても罪を犯すのです。失敗するのです。
人は変わります。しかし、神は変わりません。
神様の約束は真実であり、神様の恵みを受けた者には、神様は預言者を遣わします。

私たちクリスチャンにとって、聖書の御言葉は預言者の役割を果たします。
御言葉を通して、我に返るのです。悔い改めに導かれるのです。

ダビデの前に、預言者ナタンが現れました。
ナタンは、たとえ話をもって、彼の過ちを諭し、叱責したのです。

ダビデは、自分の過ちを認め、罪を告白し、悔い改めます。
その告白は、詩編51編に記されています。

ダビデは、悔い改め、罪の赦しを体験したのです。
悔い改めることによって、罪の赦しという神の祝福を受けたのです。

私たちは神の恵みによってすべての罪が赦されています。
しかし、御心に従わず、罪を犯せば、罪の報いを受けるのです。
罪責感に苛まれるのです。
罪が呪いのように、私たちの心と思いを苦しめるのです。

ダビデも、苦しみました。叫び、上を見上げたのです。
神に助けを求めたのです。
その時、彼は罪を覆い隠してくださる神の愛に包まれたのです。

それが、今日の聖書の個所のダビデの告白です。
4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
4:8 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」

みなさん。アブラハムが得たもの。
それは「神の恵み」と「神の祝福」でした。
ダビデが得たもの。
それは、「神の恵み」と「神の祝福」でした。

幸いな人とは、幸せな人とは、「神の恵み」と「神の祝福」を得る人です。

パウロは言うのです。
この幸いは、誰でも得ることができる、と。
ただ、イエス・キリストを信じ、従うだけで、誰でも得ることができるのです。

4:9 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
4:10 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
4:11 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
4:12 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
パウロが言いたいことは、アブラハムはユダヤ人の信仰の父であると共に、すべての人の信仰の父なんだ、と。
誰でも、アブラハムのように、神の恵みを受け取り、神に従うならば、神の祝福を受けることができるんだ、と。

誰でも、ダビデのように、神の恵みを受け取り、神に従うならば、神の祝福を受けることができるんだ、と。

私たちも、信仰によって義とされていることを喜び、感謝しましょう。神の恵みによって、根源的な罪が赦されていることを感謝しましょう。

そして、私たちが神に従うならば、神の祝福が与えられることを喜び、感謝しましょう。

生まれて良かった。
クリスチャンになってよかった。
上を見上げ、感謝して、今週も歩んでいきましょう。
お祈りいたします。

ルカ6:27-38「黄金律」

◇2012年7月22日(日)
●ルカ6:27-38「黄金律」

●御言葉
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(6:31)

●黙想
黄金律(ゴールデンルール)を黙想し、

いつも適用するならば、

幸せな人間関係を築き上げることができます。

敵を愛し、侮辱する人のために祈り、

与え、赦すことは、簡単ではありません。

それでも御言葉に従い、

実践する人には、神の報い(祝福)があるのです。

今日は日曜日です。

共に主を見上げ、礼拝し、神の祝福を受けましょう。

今日も祝福された一日となりますように。byバルナバ

ルカ6:12-26「幸せ」

◇2012年7月21日(土)
●ルカ6:12-26「幸せ」

●御言葉
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。(6:21)

●黙想
あなたは幸せですか。

幸せとは、幸せと思える状況にあるのではなく、

幸せを感じる心にあります。

たとえ、幸せに思えない状況であっても、

主を慕い求める者は幸せです。

主が幸せを感じる心を与え、

満たし、笑わせてくださるからです。

幸せを求めるのではく、主を求める人は幸いです。

主が幸せを感じさせてくださるからです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ6:1-11「御言葉」

◇2012年7月20日(金)
●ルカ6:1-11「御言葉」

●御言葉
律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。(6:7)

●黙想
はさみとナイフは使い方を間違うと凶器に変わります。

律法は良いものです。

律法学者たちは、律法を武器にし、

イエスを訴えようと、注目したのです。

イエス様は律法の心(神の御心)に従って行動し、

弟子たちの空腹を満たし、

手の萎えた人を癒されました。

これを見て、律法学者たちは怒り狂ってしまったのです。

御言葉は自分に適用する。

これが正しい聖書の読み方です。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ5:27-39「執着」

◇2012年7月19日(木)
●ルカ5:27-39「執着」

●御言葉
彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。(5:28)

●黙想
あなたが執着しているものは何ですか。

捨てなければ拾えないものがあります。

冨に執着し、

徴税所に座っていたレビを変えたのは、

キリストとの出会いです。

「わたしに従いなさい」との招きに、

彼は何もかも捨て、イエスに従いました。

彼は捨てることで、救いを得、

冨を用いることで、多くの友を得たのです。

執着から解放された人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ5:12-26「病の癒しと罪の赦し」

◇2012年7月18日(水)
● ルカ5:12-26「病の癒しと罪の赦し」

●御言葉
イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(5:20)

●黙想
病は自然治癒力や医学の力で癒されることがあります。

しかし、罪は自然にも、人間にも赦す力はありません。

罪の赦しを宣言できるのは、神様だけです。

イエス様は神様です。

イエスのところに運んだ四人の信仰が

中風の人の「病」と「罪」の問題を解決したのです。

主は癒し主であり、救い主です。

主を求めて近づく人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ5:1-11「お言葉ですから」

◇2012年7月17日(火)
●ルカ5:1-11「お言葉ですから」

●御言葉
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(5:1)

●黙想
祝福の原則をご存じですか。

神の祝福は、無償で与えられる恵みとは異なります。

自分の思いとは違っていても、

「お言葉ですから」と言って、

わが思いを捨てて、

主の思い(御心)に従う時に与えられる世界です。

神の恵みと神の祝福に与る人。

それがキリストの弟子であり、

真のクリスチャンです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ4:31-44「癒し主」

◇2012年7月16日(月)
●ルカ4:31-44「癒し主」

●御言葉
日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。(4:40)

●黙想
イエス様はどのようなお方ですか。

罪を赦し、病を癒される方です。

イエス様の噂を聞いて、

大勢の病人がイエス様のところに連れられてきました。

イエス様は一人一人に手を置いて癒されました。

イエス様は救い主であり、癒し主です。

主を求める者に救いと癒しを与えてくださる方です。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

アブラハムは何を得たのか

『アブラハムは何を得たのか』
(ローマ信徒への手紙4章1節~5節)
(2012年7月15日 ベテル清水教会 聖日礼拝)

あるデパートが、消費者心理を調べる実験をしました。
野菜コーナーの二つのショーウインドーの明るさを変えたそうです。
一つのショーウインドーの照明を4割カットしました。

そこへそれぞれ、ほうれん草100束を並べ、売れ行きを調べたんですね。
すると、明るいショーウインドーの方がよく売れたというのです。

昨年の原発事故以来、電力不足から、省エネが叫ばれています。
ある店に入ると、なんか暗いなと思って、天井を見ると、照明器具が半分、外されていました。
店が暗いと、寂れているような印象があります。

明るさというのは、人の心に影響を与えます。
ジョーダンさんたちの明るい笑顔を見ると、こちらも明るくなりますね。
来週が最後だと思ったら寂しいですね。。

「暗い、堅い、つまらない」
これが日本の教会の特徴だと言われます。
暗い、堅い、つまらない場所に、人が集まるでしょうか。

今、世界的にリバイバルしている教会の特徴は、
聖霊に満たされ、明るく、元気で、のびのびしている教会だそうです。

私たちの心は海のようです。
海の青さというのは、空の色の影響を受けます。
日本海と太平洋では、雰囲気が違います。海の色が違うんですね。

日本海は雲が多く、どんよりとしています。
ヒュルリー、ヒュルリララーという歌が似合います。
しかし、太平洋は、あまり雲がありません。
海も真っ青であります。
海の色は、空の色の影響を受けるのです。

イエス様は弟子たちに「あなたがたは世の光である」と言いました。
パウロは「光の子らしく歩みなさい」と言いました。

私たちが世の光となり、光の子らしく生きるためには、キリストの光を浴びる必要があります。

イエス様を仰げば、イエス様を礼拝すれば、心が明るくなるのです。
イエス様を仰げば、イエス様を礼拝すれば、心に義の太陽が昇るのです。

マラキ書には、こう預言されています。
マラキ3:20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。
その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。

今朝も、義の太陽であるイエス様を礼拝し、イエス様に触れて癒され、喜び躍りながら、帰っていきたいと思います。

さて、ローマ信徒への手紙の学びを続けております。
今日から4章に入ります。
この4章は、3章の最後の言葉を受けて語られています。
ですから、まず31節の御言葉を読みます。

3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

パウロはギリシア生まれのユダヤ人であり、律法を重んじていました。
彼は律法を守り、その教えに従って生きてきました。

パウロは、キリストに出会って、悟ったのです。
人は律法によっては義とされるのではない。救われるのではない。
人は信仰によって義とされる、救われるんだ、と言ったのです。

ユダヤ人たちは、この教えは、律法を無にするものだ、と思ったのです。

これに対して、パウロは「そうではない」。
むしろ、信仰によって、律法は確立されるんだ、と言ったのです。
これはイエス様の見解と一緒です。

ユダヤ人は、イエス様の教えが、律法を無にしているように思いました。
しかし、イエス様は弟子たちにこう言いました。マタイ5章。
5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

パウロは、律法を否定したのではありません。
パウロは、ユダヤ教を否定したのではありません。
パウロは、旧約聖書を否定したのではないのです。

律法の世界から福音の世界へと、
ユダヤ教からキリスト教へと、
旧約聖書から新約聖書へと、神の働きは、連続しているんだ、ということを語っているのです。

そこでパウロは、彼らが最も尊敬する人物アブラハムについて語ります。
4:1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。

アブラハムは信仰の父と呼ばれ、ユダヤ民族のルーツであります。
アブラハムは、神の言葉を聞き、父の家を離れ、神に従いました。
アブラハムは、徹底的に神に従ったのです。

一番有名なエピソードは、創世記22章の出来事です。
神様はアブラハムに「イサクを捧げなさい」と言わました。
イサクはやっと与えられた約束の子です。
その子を捧げたら、神の約束は実現しなくなります。
しかし、アブラハムは、主を信じ、イサクを捧げようとしたのです。
全き献身であります。

ユダヤ人にとって、「信仰」と「行い」は切り離せないものでした。
アブラハムの信仰は、行いを伴うものでした。
アブラハムは、信仰の功労者です。
もし彼が、神の言葉に従わなければ、神の祝福はありませんでした。
ユダヤ民族は、アブラハムの祝福の実であります。

しかし、だからと言って、アブラハムは誇ることはできない、とパウロは言うのです。
彼が祝福の実を残すことができたのは、まず、神様がアブラハムを選んだからだ、というのです。

アブラハムは、彼の行いが正しいから、神様に選ばれたのではありません。
アブラハムが選ばれたのは、神様の恵みです。
恵みが先行しているのです。

しかし、ユダヤ人達は、この先行する神の恵みを忘れました。
アブラハムの行いに目を向けてしまったのです。
アブラハムの祝福に目を向けてしまったのです。

みなさん。神の祝福は、行いと連動します。
神様は、イスラエルの民に、祝福と呪いを置きました。
神様に従う時に、祝福が与えられるのです。

みなさん。神の祝福は、信仰の実です。信仰の結果です。
信じて、従った結果、アブラハムは、神の祝福を得たのです。

みなさん。アブラハムが義とされたのは、彼の功績によるものではありません。
4:2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。

アブラハムは神の前で誇ることができません。
ユダヤ人たちは、神の前で誇ることはできません。
私たちクリスチャンは、神の前で誇ることはできません。

なぜでしょうか。
人は行いによっては義とされない。救われないからです。
人は信仰によってのみ義とされる。救われるからです。

毎週、毎週、同じ事を聞かされて、もう耳タコができたでしょう。
しかし、我慢して聞いてください。私も我慢して話していますから。
「信仰義認」
これは、キリスト教の核心であり、ここからずれると、私たちは自分を誇り、人を裁く、ファリサイ派の人々と同じようになってしまうからです。

4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。

創世記第15章をお開きください。P19
15:1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
15:2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
15:3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

アブラムは主を信じた。

みなさん。主を信じるとは、主を信頼するということです。
主と主の言葉を信頼するということです。
主の約束を信頼するということです。
アブラハムは、主と主の言葉を信頼し、従ったのです。

ここでパウロが言いたいことは、あなたたちの信仰の父であるアブラハムも、信仰によって義とされたんだよ。
その後の彼の行い、功績が認められて義とされたのではない、と言っているのです。

みなさん。報酬と恵みは違います。
働きに対して与えられるのは報酬です。
働きがないのに与えられるのは恵みです。

4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。

働きがないのに、与えられる。
これが恵みです。

イエス様はぶどう園のたとえ話をされました。

ぶどう園の主人は、労働者を求めて広場に行きました。
一人目は9時に雇われました。
一日一デナリオンを支払う約束で働いたのです。

二人目は12時に雇われました。
彼もまた一デナリオンを支払う約束で働きました。

三人目は3時に雇われました。
彼もまた一デナリオンを支払う約束で働きました。

主人は5時頃にも広場に行きました。
すると、まだ仕事が決まらずに立っている人がいました。
6時には仕事は終わります。
もう一時間しか時間はありません。

まさか、この時間から雇ってくれるとは思いませんでしたが、
彼はぶどう園に行って、一時間だけ働きます。
そして、6時になって仕事が終わりました。

主人は、最後に来た人から賃金を払いました。
たった一時間しか働いていないのに、彼は一日分の賃金をもらいました。

どれほど嬉しかったことでしょうか。
十分な働きがないのに、与えられる。
これが「恵み」に生きる人の姿です。

一日中働いた人も思ったことでしょう。
何という気前のよいご主人なんだろう。
たった一時間しか働かなかったこの男に一日分の賃金を与えるなんて。

彼は、自分の順番が来るのが楽しみでした。
自分は一日中、働いたので、きっと多くもらえるだろうと期待していたのです。

しかし、彼が手にしたのは一デナリオンでした。
「えっ。同じ。ショック。何で、あり得ない」
彼は主人に文句を言いました。

もし、私たちがこの人の立場になったら、同じ感情を持つでしょう。
報酬というのは、働きに応じて支払われるべきです。
彼は、自分の報酬には文句はありません。
しかし、一時間しか働かなかった人の報酬には納得できなかったのです。
働いていないのに、多くもらうなんてあり得ない、と。

しかし、この主人は言います。
「わたしは不当なことはしていない」と。

ユダヤ人たちは、神の恵みを報酬と考えました。
罪人や遊女たちが赦されるなんて、あり得ない。
彼らが義とされるなんてあり得ない。

彼らは、神に義とされるのは、報酬だと考えていたのです。
罪人や遊女は、報酬に見合うような働きをしていないじゃないか、と。

しかし、人が義とされるのは、神の恵みなのです。
罪人や遊女たちが救われるのは、神の恵みなのです。
たった一時間しか働けないような者であっても、同じように扱ってくださる。
これが神の恵みです。

大切なのは、この恵みに応答することです。
たった一時間しか働けなくても、呼びかけられたら、従うことです。
神の恵みを、「感謝します」と言って受け取ることです。
ただ、それだけで義とされるのです。救われるのです。
これがキリスト教の救いです。

みなさん。救いというのは、神の呼びかけに応答することです。
ただ、信じて従うだけで、救われるのです。
功績にはよらないのです。

では、功績は意味がないのか。報われないのか。
そうではありません。
他の労働者たちは、約束どおりの報酬を受けました。

神様は働く者に対して報酬を約束します。
それが神の祝福です。アブラハムの祝福です。

神の祝福は、御心に従う者に与えられます。
「よくやった忠実な僕よ」と言って、報いてくださる。
これが神の祝福です。

みなさん。アブラハムは何を得たのでしょうか。
第一に、アブラハムは、信仰によって、神の義を得ました。
救いを得ました。
私たちクリスチャンも、信仰によって神の義を得ました。
それは、私たちの働きに対する報酬ではありません。
神の恵みによって、義とされるのです。

アブラハムが得たものは、神の恵みです。
私たちが得たものは、神の恵みです。

神の恵みが現れた。
これが2000年前のキリストの出来事です。

神の恵みによって義とされたる。
神の恵みによって救われる。
誰でも、例外なしに、ただキリストを信じるだけで救われるのです。

アブラハムは何を得たのでしょうか。
第二に、アブラハムは、信仰によって神の祝福を得ました。

私たちが神を信じ、神に従順して生きる時、神の祝福を得るのです。

アブラハムの働きは、神の義を得るためのものではありません。
アブラハムの働きは、神の祝福を得るためのものです。

私たちクリスチャンも同じです。
私たちクリスチャンの働きは、神の義を得るためのものではありません。
私たちの働きは、神の祝福を得るためのものです。

たとえ、この地上で、その働きが報われなかったとしても、
神様は、働きに報いてくださるのです。

おそらくアブラハムは、天国で驚いているでしょう。
イサクを捧げたことの報いが、どれほど大きな祝福となったか。
彼は、地上では、約束の成就を見ることはできませんでした。
しかし、天で、彼は約束の成就を見ているのです。

みなさん。アブラハムが得たものを、私たちも得ています。
神の恵みによって救われていることを感謝しましょう。
神に従うことによって、神の祝福が注がれることを感謝しましょう。
恵みに応答して生きる者は、神の祝福を受けます。
お祈りいたします。

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ルカ4:16-30「礼拝」

◇2012年7月15日(日)
●ルカ4:16-30「礼拝」

●御言葉
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。(4:16)

●黙想
いつものとおり、礼拝を守っていますか。

礼拝の中で神の言葉は宣言されます。

人々は、イエス様の言葉に驚きながらも、

「ヨセフの子ではないか」と、信じることができず、

イエス様を町から追放してしまいます。

神の言葉を聞き、

「お言葉どおり、この身になりますようにと」と

信じる者には、現実となります。

今日は日曜日です。

神の言葉が宣言される日です。

礼拝を守り、神の言葉を聞き、

信じる者は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ4:1-15「試み」

◇2012年7月14日(土)
●ルカ4:1-15「試み」

●御言葉
悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。(4:13)

●黙想
毎日、聖書を読んでいますか。

イエス様も悪魔の誘惑を受けました。

悪魔は神の言葉を用いて、

神を試みさせようと誘惑してきます。

エデンの園に現れた蛇も同じです。

神を疑い、御言葉を疑うようにする。

これが悪魔の策略です。

御言葉によって、神を試みるのではなく、

自らを試みて、成熟したクリスチャンになりますように。

御名によって祝福します。byバルナバ

ルカ3:21-38「神に至る」

◇2012年7月13日(金)
●ルカ3:21-38「神に至る」

●御言葉
エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。(3:38)

●黙想
あなたのルーツはどこに至りますか。

イエス様は、法的にヨセフの子とみなされました。

ヨセフはダビデの子孫であり、

そのルーツを遡れば最初の人アダム、

そして神に至ります。

あなたのルーツも神に至ります。

人は神に造られ、やがて神のところに帰るのです。

どこから来て、どこに行くのかを知り、

置かれた場所で花を咲かせる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ3:10-20「QT」

◇2012年7月12日(木)
●ルカ3:10-20「QT」

●御言葉
そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。(3:10)

●黙想
群衆は、ヨハネにどうすればよいかを尋ねました。

ここにQTの目的が示されています。

QTとは、悔い改めです。

QTとは、日々、御言葉を黙想し、

「わたしはどうすればよいのですか」と尋ねることです。

御言葉を生活に適用し、

悔い改めにふさわしい実を結ぶ者となりますように。

御名によって祝福します。byバルナバ

ルカ3:1-9「悔い改め」

◇2012年7月11日(水)
●ルカ3:1-9「悔い改め」

●御言葉
悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(3:8)

●黙想
悔い改めとは、心の変化を意味します。

心の変化は生き方に表れます。

真実な悔い改めは、人生に変化と良い実を結びます。

実を見れば、心が分かります。

たとえ石ころのような存在でも、

悔い改めて、キリストに従うならば、

アブラハムの祝福を継承し、

祝福の基として、豊かな実を結ぶ者となります。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

◇2012年7月10日(火)
●ルカ2:39-52「恵みに包まれ」

●御言葉
幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。(2:40)

●黙想
神の恵みに包まれた人は幸いです。

イエスはたくましく育ち、

知恵に満ち、神の恵みに包まれていました。

さらに、知恵が増し加わり、

背丈も伸び、神と人とに愛される人になりました。

幼子イエスの姿は、神の子として成長するクリスチャンの姿です。

あなたも神の恵みに包まれて成長します。

神の家こそ、自分のいるべき場所だと悟る人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ2:25-38「救い」

◇2012年7月9日(月)
●ルカ2:25-38「救い」

●御言葉
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。(2:30)

●黙想
信仰がなければ救いを見ることができません。

シメオンが見たのは生まれたばかりの赤ちゃんです。

この幼子が成人し、

救いの業を行うのは30年以上も後のことです。

しかし、彼は共におられる聖霊によって、

主と主の言葉を信じ、

幼子の中に救いを見たのです。

シメオンは救いを確信し、

平安を得たのです。

聖霊に導かれ、

信仰によって救いを見る人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

『神は唯一だからです』

『神は唯一だからです』
(ローマ信徒への手紙3章27節~31節)
(2012年7月8日 ベテル清水教会 聖日礼拝)

今日は礼拝の中で洗礼式が行われます。
洗礼式は、教会にとって一番喜ばしい出来事であり、天国では、大勢の御使いたちが、今か、今かとその瞬間を待ちわびています。

洗礼というのは信仰告白を公の前で表現する時です。
イエスを救い主と信じた人が、人々の前で信仰を告白し、新しく生まれ変わる時です。

パウロは言いました。
「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」。

誰でも、イエスを救い主として受け入れるならば、キリストを信じるならば義とされます。
義とされる、というのは、神との正しい関係に戻るということです。
神との関係が正されること。神との交わりが回復すること。
これを聖書では「救い」と呼びます。

イエス様を信じ、洗礼を受けると、どうなるのでしょうか。
洗礼を受けた人たちは、どのような人になるのでしょうか。

第一に、罪が赦されます。過去・現在・未来、すべての罪が赦されます。
神の裁き、最後の審判を免れるようになります。

第二に、神の子の身分が与えられます。
神様を「アバ、父よ、お父さん」と呼べる身分が与えられます。

第三に、永遠の命が与えられます。
死は終わりではない。キリストの如く復活し、天国が保証されます。

第四に、キリストに結ばれて、神の祝福を受ける者となります。
祝福の基としての人生が始まります。

第五に、神の家族に加えられ、聖霊と共に歩む者となります。
主と主の言葉に守り、導かれた人生が始まります。
そのほかにも、御言葉を通し、神の御業を体験し、神の導きを発見するようになります。
洗礼を受ける者に準備されている、これらの恵みと祝福は、
すべて、ただイエス・キリストを信じるだけで与えられる。
実は、これが、今、ご一緒に学んでいるローマ信徒への手紙の主題です。

先週は「ところが今や」と題して、この手紙の心臓部分に当たる場所を学びました。
今日はその続きです。

3章27節以下を学びます。
もう一度聖書をご覧ください。
3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

ここに二つの法則が出てきます。
「行いの法則」と「信仰の法則」です。

「行いの法則」とは、律法によって義とされるという法則です。
義とされるとは、救いと同じ意味です。

ユダヤ人は、この法則に従って生きていました。
彼らは律法を誇っていました。
自分たちには律法が与えられた。
自分たちは律法を守っている。
これが彼らの誇りでした。

かつてパウロも、律法を誇りとしていました。
しかし、彼はキリストに出会い、自分の間違いに気づきました。
彼の誇りは砕かれたのです。
律法では救われない。行いの法則では、義とされない。救われない。
パウロはそのことを悟ったのです。

みなさん。行いの法則で救いを目指す、というのは、太平洋を泳いでアメリカを目指すように話です。

明石海峡なら泳いで渡れる人はいるかもしれません。
しかし、太平洋を泳いで渡れる人はいないでしょう。

行いによって義とされる、というのは、それと同じようなものなのです。
不可能なことなのです。

パウロは律法を守る努力をしました。
しかし、義に達したかというと、むしろ、義とは正反対の結末を迎えていたのです。
神様に喜ばれるどころか、神様に逆らう結果になっていたのです。

パウロがそのことに気づいたのは、キリストに出会ってからです。
みなさん、キリストに出会った人は、新しい法則に出会います。
それが「信仰の法則」です。

「信仰の法則」とは、信仰によって義とされるという法則です。
神様が遣わした救い主を信じるだけで救われる、という法則です。

今日、洗礼を受けられる姉妹も、この法則によって救われるのです。
これはちょうど、泳いでいる最中に、船に救助されるようなものです。
自力ではなく、船に乗ってゴールに向かうようなものです。

「何という恵み。ああ、助かった。神様のおかげだ」
これがパウロが体験した信仰の法則です。
私たちは、この信仰の法則によって、救われたのです。
これがキリスト教であります。

行いの法則は、ユダヤ人と異邦人を区別しました。
律法を守る人は義とされ、律法を守らない人は義とされない。

ユダヤ人にとって、律法を守っているかいないかが、救いの基準だったのです。
律法を守らない人々は、罪人のレッテルを張られました。
異邦人は律法を知りませんから、当然、律法を守っていません。
ユダヤ人は、異邦人が義とされることなど、あり得ないと考えていたのです。
異邦人が救われるはずはない、と思っていたのです。

これに対して、パウロは「ノー」と言いました。
神様は、ユダヤ人だけの神なのか。
そんなはずはない。そんなことはないんだ。
神様は、異邦人の神でもあるんだ。
神様は、すべての人々を造られた神だ、と言っているのです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。

みなさん。神様はユダヤ人だけの神ではありません。
神様は私たちクリスチャンだけの神でもありません。
神様は、全ての人々の神様です。

みなさん。神様は信じる者たちだけの神様ではありません。
信じない者にとっても、神様であることには変わらないのです。

ユダヤ人たちは、天地万物を造られた神様を信じていました。
この神様は自分たちの民族を選び、愛し、祝福してくれました。
彼らは、この神様を「イスラエルの神」と呼んでいました。

異邦人たちの神?
とんでもない。異邦人は偶像を神としている。
彼らの神には命がなく、偽りの神だ。

彼らは、自分たちの神と、異邦人が信じている神々とを比較したのです。
そして、自分たちの神の方が素晴らしい。そう誇ったのです。

みなさん。信じる側から見るとき、神様の種類はたくさんあります。
私たちはイエス・キリストを神とします。
イスラムの人は、アラーを神とします。
仏を神と同じように信じている人もいるでしょう。
先祖を神として奉る人もいれば、自然を神と拝む人もいます。

この世には多くの神々があります。
これは信じる私たちの側からの視点です。
信じる側の視点から見れば、世界にはあらゆる神々が満ちているのです。
聖書も、信じる側からの視点で語っている個所もあります。

パウロは言います。
3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

実に、神は唯一だからです。
今日の説教のタイトルです。
割礼のある者とは、ユダヤ人のことです。
割礼のない者とは、異邦人のことです。
神は、ユダヤ人も、異邦人も、信仰によって義とされると言ったのです。

しかも、そのことは、律法を無にすることではなく、律法を確立することだ、と言ったのです。
律法を確立する。
このことについては、また、後日、お話ししたいと思います。

今日、心に留めたい御言葉は「神は唯一だからです」であります。

今、宗教ブームだと言われています。
書店には、いろんな宗教の書物が並んでいます。
それはまさに神様の品評会です。
どの神様がいいのか。
どの神様を選んだらよいのか、悩んでいる人も多くいると思います。
パウロは言います。
「神は唯一だ」と。

ユダヤ人たちは、これに対して、異論はありません。
聖書にもはっきりと記されていることです。

申命記6章をお開きください。P291
6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6:6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、
6:7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。

日本基督教団には「信仰告白」があります。
その冒頭の部分でこう告白しています。
「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」と。

私たちは、この聖書が神の言葉であると信じています。
その聖書が「神は唯一である」と語るのです。

みなさんはどう思いますか。
現実には、この世には多くの神々と呼ばれるものがあります。
ある人はいいます。
一人より、いっぱいいるほうがいいじゃないか。
いろんな神様に助けてもらったらいいじゃないか、と。

ウルトラマンだって、一人よりも、たくさんいる方が心強い。
最終回には、ウルトラの父や母、お兄さんなど、たくさん出てきたように、神様はいっぱいいて、助けてくれる方がいいと思うかも知れません。

しかし、聖書は語ります。申命記6章13節から
6:13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。
6:14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。
聖書も他の神々について語りますが、これは信じる側の視点です。
6:15 あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。

母との同居が始まって一ヶ月が過ぎました。
母、これまで二回、もう天に召されるのではないか、という危機がありました。
前回は「わたしには死んでいる暇がない」と言って、回復しました。
今回は「わたしにはぼけている暇がない」と言って、回復しました。

母の命が守られ、今回、同居することになったのも、神様の導きであったと思っています。

みなさん。母親というのは世界にただ一人の存在です。
唯一なる存在です。
ある人は、私には母親が二人いるという場合があるかもしれません。

生みの母、育ての母、あるいはジョーダンさんが竹中さんを「日本の母」と呼んでいるように、母と呼ぶ人が複数いる場合もあるかもしれません。

しかし、生みの母は唯一です。
いやいや、わたしは二人の母から半分ずつ生まれて、くっついたんです、という人はいないでしょう。

母一人。父一人。これは絶対的真理です。
6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
これも絶対的真理です。
造り主は、唯一であり、ユダヤ人も異邦人も、神様に造られたのです。

神様は、信じている人だけを造られたのではありません。
神様は、信じていない人をも造られたのです。

母親は自分の子供を愛します。
母親は子供の幸せを願います。
五人子供がいれば、五人の幸せを願うのが母親です。

神様はすべての人を愛しています。
神様はすべての人の幸せを願っています。

母親は子供を愛し、子供の祝福を祈ります。
わたしは、母が、どれほどわたしのために祈ってくれていたかを知っています。
この祈りに支えられ、今の私があると思っています。

神様も同じです。
神様はすべての人を愛し、すべての人が滅びることなく、救われることを願っているのです。
そして、そのために、神様は救いの道を準備しました。
それが2000年前のキリストの十字架です。

神様はすべての人を愛しています。
私たちの罪を赦し、私たちが神との間に平和を得て、幸せになれるようにと、救い主を遣わされたのです。

イエス様は十字架の上で祈りました。
「父よ、彼らをおゆるしください」と。
イエス様の祈りによって、私たちは赦され、救われたのです。

それは、決して、私たちの行いによるのではない。
神の行いによって、ただ、私たちがその神の行いであるイエス様の十字架の贖いを信じるだけで、救いに恵みに与れるのです。

みなさん。神は唯一です。
このお方を慕い求めましょう。このお方に信頼しましょう。
お祈りいたします。

ルカ2:15-24「御声を聞く」

◇2012年7月8日(日)
●ルカ2:15-24「御声を聞く」

●御言葉
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。(2:19)

●黙想
突然、マリアのところに羊飼いが現れます。

彼らが伝えた天使の言葉は、かつてマリアも体験した言葉でした。

マリアは、これらの出来事を心に納め、思い巡らしました。

「納める」とは、大切にしまっておく、という意味です。

あなたの心に納めている出来事はありますか。

その出来事を思い巡らしながら、聖書を黙想する時、

神の声が聞こえ、神の計画を発見します。

今日は日曜日です。共に主を礼拝しましょう。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

◇2012年7月7日(土)
●ルカ2:1-14「平和」

●御言葉
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(2:11)

●黙想
イエス・キリストは

あなたのために生まれた救い主です。

この方を「主メシア」と告白するとき、

平和・平安(シャローム)がもたらされます。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。

何事につけ、

感謝を込めて祈りと願いをささげ、

求めているものを神に打ち明けなさい。

そすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、

あなたがたの心と考えとを

キリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ(4:6-7)。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

ルカ1:67-80「神の憐れみ」

◇2012年7月6日(金)
●ルカ1:67-80「神の憐れみ」

●御言葉
これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(1:78-79)

●黙想
三重の苦しみを背負ったヘレン・ケラーは言いました。

「悲しみと苦痛はやがて

゛人のために尽くす心″という美しい花を咲かせる土壌だと考えよう。

心を優しくもち、耐えぬくことを学ぼう」。

憐れみの心は悲しみと苦痛を通して花咲きます。

神の憐れみはキリストの悲しみと苦しみ(十字架)によって示されました。

神の憐れみを受ける人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ
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