二ペトロ3:8-18「主の忍耐深さ」

◎2008年7月31日(木)
●二ペトロ3:8-18「主の忍耐深さ」
●要約 (リビングライフより)
主の約束が遅く思われる理由は、選ばれた者たちがすべて悔い改め、救われることを待たれるからです。主の日に備え、聖徒は再臨に対する望みに堅く立ち、キリストの恵みと主を知る知識に置いて成長しなければなりません。

●御言葉
また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。(3:15)

ペトロは、主の再臨(終末)が遅れているのは、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(9節)と言いました。

もし、神様が忍耐してくださらなければ、私たちに救いはありません。

主の忍耐には限界はありません。

どんな大きな罪を犯した人でも救われます。

しかし、忍耐の終わりは来ます。

救いの門が閉ざされる前に、主に立ち帰る人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ
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二ペトロ3:1-7「救い主の掟」

◎2008年7月30日(水)
●二ペトロ3:1-7「救い主の掟」
●要約 (リビングライフより)
ペテロは主の再臨が、預言者たちが預言し、主が使徒たちに直接語られたことであることを思い起こさせます。そして、終わりの日に、あざける者たちが、創造の時と何も変わっていないと言って、主の再臨を否定すると警告します。

●御言葉
聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。(3:2)

ペトロが二度にわたり手紙を書いたのは、救い主イエス様の掟を思い出させるためです。

イエス様は言いました。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)。

愛するとは「大切にする」ことです。

今日、あなたは誰を大切にしますか。

主の掟を実践する人は幸いです。

御名によって祝福します。byバルナバ

二ペトロ2:9-22「誘惑に打ち勝つ」

◎2008年7月29日(火)
●二ペトロ2:9-22「誘惑に打ち勝つ」
●要約 (リビングライフより)
にせ教師たちは、理性のない動物のようなもので、神をそしって楽しみ、弱い魂を誘惑します。彼らは不義の報酬を愛したバラムのようです。義の道を知っていながら聖なる命令に背くなら、むしろそれを知らない方がよいのです。

●御言葉
わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなる。(3:20)

世の中には私たちを誘惑し、堕落させる力が働いています。

その力に巻き込まれないように、打ち負かされないように、いつも目を覚ましていることが大切です。

「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」(箴言4:23)。

今日、あなたの心があらゆる誘惑から守られますように。

御名によって祝福します。byバルナバ

二ペトロ1:12-21「良心」

◎2008年7月28日(月)
●二ペトロ1:12-21「良心」
●要約 (リビングライフより)
にせ教師たちは主を否定した行いを常とし、その異端性を現します。神は彼らを必ず裁かれます。神は罪を犯した御使いたちを赦されず、ノアの時代の不敬虔な者たちと、堕落したソドムとゴモラを滅ぼされました。

●御言葉
この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。(2:80)

神様は人の心に「良心」を与えました。

人は罪を犯したり、罪を見聞きすると良心が痛みます。

しかし、罪の中にとどまり続けると、やがて良心の痛みは麻痺してくるのです。

あなたの良心は正しく機能していますか。

毎日、御言葉を読み、神と交わる人は、良心が正しく機能し、ロトのように救いの道が開かれます。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

説教 「力の祈りの真髄」

『力の祈りの真髄』
(ルカ8:22-25)
(2008年・7月27日・ベテル清水教会 聖日礼拝)

先週、日本基督教団聖霊刷新協議会の教職研修会が行われ、参加してきました。
有馬ですから、温泉もありましたが、恵みもたくさんありました。

講師は韓国のパウロ聖書宣教会の代表のカン・テオン先生でした。
テーマは「聖霊によるいやしの賜物の開発」でした。
「癒しの賜物の開発」
このテーマを見たときに、少し違和感を覚えました。
「賜物」というのは、神様からのプレゼントでありますから、開発するというのは、どうなんだろうか、という思いが心によぎったからです。

しかし、講義を聞く中で、開発するというのは、与えられている賜物を発掘し、磨いていくという意味であることが分かりました。
たとえば私たちの肉体は、神様から与えられた賜物です。
その肉体を鍛えたり、訓練することによって、磨かれていきます。
運動もせず、ずっと寝たままでいると、肉体は筋肉が衰え、やせ細ってしまいます。
与えられている体をそのままにせず、鍛えることは大切なことです。

日野原重明先生は、90歳を越えた今でも階段は二段とばしで上ったり、エスカレータを使わないようにして、足腰が衰えない努力を続けておられます。

霊の賜物についても同じでありまして、神様は私たちクリスチャンに霊的な賜物を与えてくださっているのです。
それは原石のようなものです。賜物を磨いていかなければならないのです。

どうすれば賜物を発揮することができるのでしょうか。
それは、聖霊のただ中に入ることによって、賜物は発揮されていくというのです。

聖霊のただ中に入るとは、別の言葉で言えば、聖霊に満たされるということです。
聖霊のただ中に入って祈る。聖霊に満たされて祈る。聖霊に支配された状態で祈る。
それを、カン・テオン先生は、「力の祈り」と言われたのです。
聖霊の臨在の中で祈る時、そこに神の御業が起こるのです。

今回、このことを理論的に学ぶだけではなく、体験的に学びました。
つまり、実際に聖霊の臨在の中に入って祈るということを体験したのです。
神戸の有馬口で開拓をされている先生の奥さんは、生まれつき背骨が曲がっており、普通に座っていても辛そうにされていました。
カン・テオン先生は、この牧師婦人の方のために、聖霊のただ中に入って祈る祈りをなされました。
すると、目の前で彼女の背骨がグニャグニャと動いて、そしてまっすぐになって、見ていた先生方は、みんな驚き、拍手が起こりました。

また、耳の聞こえなかった先生の耳が、聞こえ始めるという、ことも起こりました。
聖霊のただ中に入って祈るときに、神様の御業が起こったのを見ました。

みなさん。日本の教会と韓国の教会とは、同じ宣教年数でありながら、どうしてこうも違うのか。よく問われます。
韓国では30%の人々がクリスチャンです。
しかし、日本のクリスチャンは1%にも満ちません。
日本のキリスト教は、知識と教養のキリスト教だと言われます。
キリスト教系の大学が10%もあるのですが、知識と教養では、人々は救われないということが、数字的に表れています。

日本人のクリスチャンも韓国人のクリスチャンも聖書をよく読みます。
カン・テオン先生は言いました。
日本人は、聖書を理論的に読みます。頭で読み、頭で理解します。
一方韓国人は実践的に読むそうです。頭で読み、体で理解するのです。
つまり、体得していくのです。

イエス様は朝早く起きて、祈られた。イエス様は早天をされたんだなあ。
マリアは高価な壺を割って、イエス様の足を洗われ。
マリアは、大切なものを主のために捧げたんだなあ。
日本人は、イエス様の姿や弟子たちの姿をよく観察します。
観察するだけで終わってしまうのです。他人事で終わってしまうのです。

私も毎朝、QTをしながらも、いろんな発見をします。
いろんな気づきが与えられます。
発見しただけで、気づいただけで、終わってしまうことが多いのです。
それに対して、韓国人は、気づいたことを、実践に移します。
生活に適用していきます。生活の中に応用していくのです。
つまり、QTで言えば、御言葉の適用です。

日本人は、この部分が弱いですね。
イエス様は朝早く起きて、祈られた。
だから、私も明日から朝早く起きて、早天を始めよう。
これが韓国のクリスチャンです。
マリアは、壺を割って、ナルドの香油を注ぎかけた。
だから、私もイエス様のために、これを主のために捧げます。
宣教献金のために、自分の家を手放す人も何人もいるそうです。

御言葉を聞くだけの信仰と、聞いて従う信仰の違い。
これが韓国のクリスチャンと日本のクリスチャンの違いだというのです。
もちろん、日本人のクリスチャンすべてがそうなわけではありません。
実践する人がいたからこそ、1%のクリスチャンが生まれているのです。

昨日から、二ペトロの手紙に入りましたが、ペトロは「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」と言いました。

神を知る。イエス様を知るとは、聖書を読んで、観察して知るというレベルではないのです。
実際に、聖書を読んで、御言葉を実践していく中で神を知るのです。
御言葉に従うことによって、今も生きて働いておられる神様を体験するのです。神様の恵みを味わい知るのです。

ルカによる福音書の学びを続けておりますが、先週、弟子たちはガリラヤ湖で大きな嵐に遭遇しました。
彼らは、聞くだけの信仰ではなく、聞いて従ったのです。
「向こう岸に渡ろう」というイエス様の言葉に従ったのです。

御言葉に従ったときに、御言葉を実践したときに、彼らは嵐に遭遇しました。
しかし、この嵐を通して、自然をも従わせるイエス様の姿に出会うのです。
さらに、今日のテキストでは、悪霊をも追い出す力を持っているイエス様に出会うのです。

さて、今日の説教のテーマは「力の祈りの真髄」です。
これは、今回の研修会でカン・テオン先生から学んだテーマです。
私にとっても、私たちの教会にとっても非常にタイムリーな内容でありましたので、今日、みなさんに分かち合っていきます。

今日、週報の中に、セミナーでもらったプリントを印刷しておりますので、どうぞ開いてみてください。
最初のところに「力の祈りの絶対的な必要性」とあります。

「力の祈り」の「力」とは、聖霊の力です。神の力です。
聖霊の力で祈る。
パウロの言葉で言えば、聖霊に助けられた祈るということです。

聖霊に助けられて祈るとは、どういうことでしょうか。
それは、聖霊に覆われた状態で、包まれた状態で祈るということです。
聖霊に満たされて祈る。聖霊の臨在の中で祈るということです。

図がありますね。
円の中心に「霊」と書いてあります。
その円の外側に、聖霊が鳩のように降って、円の中心に入るように矢印があります。
これは、私たちがイエス様を信じて、受け入れたときに、聖霊が私たちの内側に入ってくれる状態を示しています。

みなさん。私たちはイエス様を信じた時から、聖霊が内在しています。
霊の部分に、聖霊がおられるのです。

パウロは、私たちの体を神殿に例えています。
神殿の中には聖所があり、その奥には至聖所と言って、大祭司しか入れない場所があります。
いうならば、この至聖所に大祭司であるイエス様がおられるのです。
主が共におられる、というのは、そういうことです。

私たちの霊の中に、主がおられるのです。
主がおられるところは、至聖所です。

この至聖所とは、この図で言えば、私たちの中心、つまり霊の部分です。
ここに生ける水である聖霊なる神様がおられるのです。
そして、大切なのは、この霊の部分から生ける水が溢れ流れて、私たちの心と私たちの体を満たしていくことです。
それを聖霊に満たされた状態といいます。
エゼキエル書47章には、聖所から生ける水が流れて来る様子が描かれていますね。
この生ける水が流れる所では、すべてのものは生き返るとあります。
私たちの霊の部分から、生ける水が流れて、心と体とを生かすのです。
それが聖霊に捕らえられた状態。聖霊に満たされた状態。
聖霊にどっぷりと浸かった状態。聖霊のただ中に入った状態です。

イエス様も、サマリヤの女に言いました。ヨハネ4章
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」また、7章ではこう叫んでいます。
7:37 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
この生きた水とは、私たちの霊の中におられる聖霊のことです。
プリントの中にあるもう一つの図をご覧ください。
生ける水が入ったタンクが描かれていますね。
しかし、その蛇口の部分に、黒いもの一つあります。
実は、これがタンクの水が外に流れるのをせき止めているのです。

聖霊が流れるためには、このつまっている不純物を取り除かなければなりません。
それが取り除かれた時に、生ける水は、全身に流れてくるのです。

力の祈りを体験するためには、まず、このつまっている部分を取り除く必要があるのです。
そして、今日のテキストでは、まさにイエス様はこの取り除く祈りをされているのです。
8:26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
8:27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。


イエス様がゲラサの地に着いたとき、一人の男性がイエス様に近づいてきました。
彼は、悪霊にとりつかれ、生きていても死んだような姿でした。
彼は墓場を住みかとし、自分自身を石で傷つけていました。
人にも危害を与える危険があったのでしょう、鎖でつながれました。
しかし、その鎖を自分で引きちぎり、もはや誰の手にも負えない状態だったのです。
イエス様は、彼の内側から悪霊を追い出すと、彼の中にいた悪霊は、豚の中に入ることを願いました。
豚とってはとんだ迷惑な話でありましたが、イエス様は悪霊の願いを聞き入れ、トントン拍子に話は進んで、悪霊は願いどおりに豚の中に入ります。
すると豚の大軍は、突然、狂ったように走り出しました。
豚だけに、まさにとん走したのか、トンずらをしたのかわかりませんが、
そのまま崖から、ダイブーして、溺れ死んでしまうという、とんでもない出来事が繰り広げられたわけです。
マルコでは、その豚の数は2千匹であったと記されています。
一人の男を狂わせていた悪霊は、何と豚二千匹を狂わせる力を持っていたということです。
とても人間とは思えない凶悪な事件が頻発しておりますが、そこには人間を狂わせる悪霊の存在というものを無視することはできません。

さて、みなさん。イエス様は、悪霊に取り憑かれた人が近づいて来たときに、まず最初にしたことは何でしょうか。
「やって来た」とありますから、彼は、助けを求めて近づいてきたのです。
イエス様は、彼を助けるために、まず最初にしたことは何でしょうか。
「大丈夫。悪霊の言うことには耳を傾けないで、気をつけなさい」と言われたのでしょうか。
「あなたの親もみんなもあなたのことを心配しているから、早く家に帰りなさい」と言ったのでしょうか。

そうではなく、近づいてきた彼に対して、彼に取りついていた悪霊を追い出そうとされたのです。
取り除く祈りをされたのです。
彼は、イエス様に近づくことによって、もっと苦しくなりました。
それは彼の内側にいる悪霊の苦しみでした。
悪霊は耐えられなくなって姿を表します。

8:28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」

私もかつて、悪霊につかれた人が、助けを求めて教会にやって来て祈ったことがあります。
祈り始めると、悪霊が声を発したり、苦しみもだえる場面を何度も見てきました。
取り除く祈りには、苦しみが伴います。
8:29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。

イエス様が、墓場の中で叫んでいる人に向かって、最初にしたことは、この男に取り憑いていた悪霊を追い出すことでした。

イエス様が「出て行け」と命じると、やがてこの男から悪霊が出て行って、彼は解放され、正気に戻ります。
彼は自分の家に帰れるようになりました。
そして、帰って、神様が自分にしてくれたことを、町中で証したのです。

みなさん。神の言葉には力があります。
私たちは、御言葉を信じ、御言葉を宣言することはとても大切です。
先週、学びましたように、私たちの信仰の置き所は、御言葉にあります。
御言葉を信じ、御言葉を大胆に宣言することは、とても重要です。

今回の学びを通して、教えられたことは、ただ御言葉を告白すればよい、宣言すればよいというのではなく、
御言葉を告白し、宣言するときに、聖霊のただ中ですることが重要なんだ、ということを学んだのです。

聖霊のただ中で、御言葉を宣言すること、
聖霊に満たされて、御言葉を信じ、告白する時に、神様の御業を体験するのです。
私は、この講義を、一生懸命にメモを取りながら、食い入るようにして聞きました。
すぐに帰って、実践したいという思いが心にやって来ました。

何をするにも、まず祈るときには取り除く祈りを忘れないようにしようと決心しました。
取り除く祈りとは、聖別の祈りです。
聖別の祈りを持って、説教を作る。人に会う。伝道する。礼拝に臨む。
バイトに行くときも、この祈りをして、聖霊に満たされた状態で、人と接することができるように祈り始めました。

頭では分かっていることでもありますし、それなりには実践してきたこともありますが、不十分であったと悔い改めました。

まとめたいと思います。
力の祈りの真髄は、聖霊のただ中に入って祈ることです。
聖霊のただ中に入って祈るときに、不思議な御業が起こります。
そこに証が生まれ、周りの人々に影響を与えていきます。

ゲラサの地は、異邦の地です。
そこへイエス様が来られました。
イエス様は聖霊に満ち溢れたお方です。
そこで、悪霊に命じると、悪霊は出て行ったのです。
悪霊を追い出された男性は、正気に戻り、そして、家に帰って、このことを証していくのです。

みなさん。聖霊のただ中に入って祈る。
ぜひ、これを今日から実践してください。
朝起きたときも、夜寝るときも、何か始めるときも、聖霊のただ中に入ることを、何よりも求めてください。
わたしもこれを実践していきます。

聖霊のただ中に入って祈っていくときに、神様が不思議な御業を起こしてくださると信じます。

神様に何かを願うときにも、まず取り除く祈りをしましょう。
悔い改めて、謙遜に主を求めて祈りましょう。
人間的な思いや考えを、すべて取り除いて、ただ主の声を聞くことができるように祈り求めましょう。
そして、聖霊の臨在を感じながら、祈っていきましょう。
必ず、みなさんの祈りの生活が変わると信じます。

共に、力の祈りを実践していこうではありませんか。
お祈り致します。

◎2008年7月27日(日)
●二ペトロ1:12-21「聖書」
●要約 (リビングライフより)
ペテロは死ぬ前にイエスの力と来臨を知らせようと力を尽くしました。彼は変貌山で神の御声を直接聞きました。彼は聖書のすべての預言は聖霊の感動を受けた人々が語ったものであるため、私的解釈を施してはならないと勧めます。

●御言葉
何よりもまず心得て欲しいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。(1:20)

聖書は神の霊感によって書かれた書物です。

聖書は聖霊に満たされた人が、聖霊の導きに従って書き綴ったものです。

聖書を正しく理解するためには、聖霊に満たされることが不可欠です。

自分の思いや人間的な考えを取り除き、聖霊を求め、聖霊に満たされ、神の声を求めましょう。

神の語りかけを聞いて従う者に神の御業が起こります。

今日は日曜日です。

共に主を礼拝しましょう。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

二ペトロ1:1-11「神を知る」

◎2008年7月26日(土)
●二ペトロ1:1-11「神を知る」
●要約 (リビングライフより)
神はご自分の栄光と徳によって私たちを召され、尊く素晴らしい約束を与えられました。この約束によって、神は私たちを神のご性質にあずかる者としてくださいます。聖徒はその確信によって、永遠の御国に入る恵みを与えられます。

●御言葉
神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。(1:2)

あなたは神様を知っていますか。

恵みと平和は神を知ることによって与えられます。

神様を知るとは、神様についての情報を知ることではありません。

今も生きておられる神様と人格的に交わり、体験的に知ることです。

御言葉を聞くことによって神を知る世界から、御言葉を行うことによって神を知る世界に至りますように。

御名によって祝福します。byバルナバ

一ペトロ5:18-14「目を覚ましていなさい」

◎2008年7月25日(金)
●一ペトロ5:18-14「目を覚ましていなさい」
●要約 (リビングライフより)
聖徒は身を慎み、目をさまして悪魔に敵対し、苦難に打ち勝たなければなりません。神は苦難の中にいる聖徒たちを完全にされ、堅く立たされ、永遠の栄光へと導いてくださいます。

●御言葉
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。(5:8-9a)

悪魔は目に見えませんが、存在しています。

悪魔は怒りや憎しみや罪の心に働きかけ、人間を堕落させ、破壊的な行動を引き起こさせます。

魔が差したために、人生を台無しにする人が後を絶ちません。

油断することなく、目を覚まして祈りましょう。

聖霊なる神様。

このブログを見られた一人一人が、あなたの愛と赦しの力に覆われ、守られて一日を過ごせますように。

御名によって祝福します。byバルナバ

一ペトロ5:1-7「神に任せよ」

◎2008年7月24日(木)
●一ペトロ5:1-7「神に任せよ」
●要約 (リビングライフより)
長老たちは神にゆだねられた羊の群れを牧するとき、神の御心に従い、進んで手本を示さなければなりません。若者たちは指導者たちに従い、謙遜を身につけなければなりません。

●御言葉
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(5:7)

ペトロは「謙遜を身につけなさい」(5節)と言いました。

謙遜とは、神様に頼る心です。

高慢な人は、神を頼ろうとしません。

イエス様は「明日のことは思い煩うな」と言いました。

明日のことは、あなたが気にしなくても、神様が気にかけてくださっています。

すべてを神様にゆだね、今日、あなたにゆだねられていることにベストを尽くして歩みましょう。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

一ペトロ4:12-19「神の霊がとどまる人」

◎2008年7月23日(水)
●一ペトロ4:12-19「神の霊がとどまる人」
●要約 (リビングライフより)
火のわざわいのような苦難が来ることを驚き怪しむことなく、喜ばなければなりません。クリスチャンは苦難を受けることで、神の栄光を現す人々です。ですから、自分のたましいを創造主なる神にゆだねなければなりません。

●御言葉
あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(4:14)

初代教会の人々はクリスチャンだという理由だけで、火のような厳しい試練を受けました。

しかし、彼らは信仰を守り抜きました。

非難を避け、神の霊と離れるよりも、たとえ非難を受けても、神の霊がとどまっている方が幸いだと信じていたからです。

神の霊がとどまるとは、神の霊に覆われ、守られるということです。

あなたの上に神の霊はとどまっていますか。

神の霊に包まれて生きる人は幸いです。

すべてのことが益に変えられるからです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

説教 「あなたがたの信仰はどこにあるのか」

『あなたがたの信仰はどこにあるのか』
(ルカ8:22-25)
(2008年・7月20日・ベテル清水教会 聖日礼拝)


今日も一緒に、ルカによる福音書から御言葉を学びたいと思います。

もう一度、8章22節からご覧ください。
8:22 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。

この物語は、マタイ8章、マルコ4章にも出てきます。
マタイでは、「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」とあります。

また、マルコとルカでは「向こう岸に渡ろう」というイエス様の言葉に従って、弟子たちが舟を出しています。
つまり、三つの福音書に共通していることは、弟子たちは、イエス様の後に従って、イエス様の言葉に従って、舟を出しているという事です。
イエス様の後に従って行ったら、イエス様の言葉を聞いて、従って行ったら嵐に遭遇した、ということです。

みなさん。私たちがイエス様に従うのは、嵐に遭わないためでしょうか。
もちろん、誰だって嵐に遭遇することを願う人はいません。
嵐がないに越したことはありません。
しかし、人生には嵐がつきものなのです。
イエス様と共に歩んでも、歩まなくても嵐には遭遇します。
大切なのは、襲ってくる突風、嵐を、どのように乗り越えるか、ということです。

クリスチャン弁護士に佐々木満男さんという方がおられます。
ササキさんが、ある時、国会議員のパーティに参加された時に、ある議員がこう嘆いていたそうです。
「自分を含めて日本人にはイザというときの支えとなる根っこがない」と。
これは政治の難局に直面している議員たちの共通の嘆きだそうです。

根っこがないから、状況の変化に右往左往してしまうというのです。
人生の地震に倒され、人生の嵐に吹き飛ばされ、人生の洪水に流されてしまう、というのです。

毎年3万人以上の人が自らの命を絶っています。
特に、中高年男性の自殺者が増加しているそうです。
会社を生活のすべての支えとしてきた人にとって、会社が揺れれば、その人の人生も揺れてしまう、というのです。
人生を支える根っこの部分を、多くの人は必要としているというのです。

教会の前に大きな木がありました。
このまま放置しておくと、家にも良くないということで、昨年、伐採しました。
根こそぎ抜き去ることは不可能です。

切り株だけになり、死んだような状態にありました。
しかし、根っこがしっかりとしているので、この切り株から若枝が出てきているんですね。
もう腐っただろうと思っていたのですが、根は生きていたのです。

今日、最初に心に留めておきたい御言葉は「イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り」という言葉です。
舟の中にイエス様が一緒にいたのです。
弟子たちを舟に導いたのは、イエス様でした。

さて、みなさん。この舟とは何を意味するのでしょうか。
この舟とは、教会のことを意味します。
いつも繰り返し申し上げていますように、福音書を読むときに、大切なのは三つの視点です。
第一は、イエス様と共に歩んだ弟子たちの視点です。
第二は、イエス様と共に歩んだ初代教会の視点です。
第三は、イエス様と共に歩んでいる私たちの視点です。

マタイやマルコやルカは、福音書を、イエス様を信じる人々、つまり教会に向けて書き綴りました。
初代教会の人々は福音書を、この物語をどのように読んだのか、ということを黙想することが大切です。
また、私たちも、この物語を通して、神様が何を伝えようとしているのかを黙想しながら、聞いていくことが重要なのです。

みなさん。教会のシンボルは何でしょうか。
教会のシンボルといえば、十字架ですね。
十字架の意味を知っている者にとっては、十字架を見つめているだけで、そこから聖書のメッセージが聞こえてきます。
象徴とは、そういう役割を持っています。

実は、教会では長い歴史の中で、舟が教会のシンボルとして使われました。
ノアの箱船は、救いの象徴でした。
大洪水を乗り越えることができたのは、この箱船に入ったノアの家族たちだけでした。

教会は、ノアの時代の箱船のような存在です。
舟の中には、イエス様がいました。
イエス様が共にいる舟は沈まない。
どんなに大きな嵐に遭遇しても、主が共にいるならば、決して沈まない。これが初代教会の信仰でした。
迫害の嵐の中にあって、教会は、自らをこの沈まない舟に例えて、試練を乗り越えていったのです。

主が共におられるならば、舟は決して沈まない。
これが今日の中心的なメッセージです。

みなさん。英語では、礼拝堂の中央部分をnave(ネイブ)と言います。
みなさんが座っている会衆席のことをネイブというそうです。
これはラテン語のnavis(ナビス:舟)という言葉から来ています。
これも教会は舟であるというところから、来ています。
みなさん、私たちは沈まない舟の中に招かれているのです。
なぜ、沈まないのでしょうか。それは主が共にいるからです。
主が共にいる舟は沈まないのです。
嵐には遭遇しますよ。洪水は押し寄せてきますよ。
溺れそうにもなりますし、神様に助けを求めなければならないときもあります。
それでも、舟は沈まないのです。
なぜなら、主が共におられるからです。
私たちの人生の舟もそうです。

私たちの人生の舟も、嵐に遭遇します。
突風が吹いてきます。溺れそうになります。
しかし、主が共におれるのです。
大切なのは、その時に、主を求めて、主に近づくことです。
主は、私たちの舟を守り、嵐を静めてくださるのです。

今、聖書日課では一ペトロを読んでおります。
ペトロは、各地に離散していったクリスチャンたちに向けて、励ましの手紙を書いています。
ペトロは、彼らのことを「旅人」と言っています。

私たちは、イエス様に従って、イエス様と共に旅をする旅人です。
「向こう岸に渡ろう」というイエス様の言葉にしたがって、神の国を目指して、人生の船旅をしているのです。

まさに教会は「舟」です。
舟の中には、イエス様が共にいます。
イエス様が共におられるので、決して舟は沈みません。
みなさん。確信しましょう。
私たちの舟には、イエス様が共にいます。
この教会の中にも、イエス様が共にいてくださる。
そこに目を向けていきましょう。

8:23 渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。

ここは、イエス様の人間性を感じさせる箇所です。
イエス様は、私たち人間と同じ肉体を持ってこの世に来られました。
お腹も空かれますし、喉も渇かれますし、涙を流したり、怒ったり、眠られることもありました。
イエス様は舟の中で眠ってしまわれた、とあります。
舟だけに舟を漕ぎながら、熟睡されたのです。
今日、二つ目に、心に留めたい言葉は「イエスは眠ってしまわれた」という言葉です。

実は、三つの福音書は、すべてイエス様が舟の中で眠ったということが記録されています。

当時の舟は、現代の客船とは違います。
舟の中で寝るという光景は、非常に珍しいものでした。
当時、海は魔物が住む世界のように考えられていましたし、
海の上は、危険と隣り合わせなので、舟の中で寝ることは論外でした。

舟の中で寝ることができる人は、酔漢。つまり大酒を飲んで、酔っぱらった人だけだったのです。

つまり、酒に酔っぱらわなければ眠れないような場所。
それが海の上でした。
酒の力を借りなければ、薬の力を借りなければ眠れない。
最初にも申しましたが、不眠症で悩む人がいるでしょう。

とても寝ていられないような場所で、寝ていられない状況の中にあっても、主は眠りたもうたのです。

詩編127編2節には「主は愛する者に眠りをお与えになる」とあります。」

とても眠れないような場所であっても、眠れないような時であっても、主は安息を与え、休ませてくださる。
これが二つ目のメッセージです。

みなさん。平安とは、よく言われますように、波風が一つもない湖面の状態を指すのではありません。
静かな湖面は、石ころ一つが投げ入れられただけでも、湖面が揺れます。

本当の平安とは、嵐の中の安らぎです。
眠れないような場所にあっても、眠れないような問題が起こっても、主を信頼して、眠りにつく世界。
これが本当の平安です。

そして、その平安を、私たちはどのようにして得られるのでしょうか。
眠れない場所、眠れない問題を抱えたときに、どうすればいいのでしょうか。
弟子たちは、恥も外聞も捨て、イエス様に向かいました。
漁師としてのプライドもありません。
イエス様に助けを求めたのです。

8:24 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。

この「おぼれそうです」とという言葉は、直訳すると「滅びます」という意味です。
「先生、先生、死んでしまいます」という意味です。

海のプロである漁師たちが、「溺れそうです」というのですから、相当ひどい状態にあったのでしょう。

タイタニックの映画を何度も見ましたが、あの舟が沈んでいくときに、ジャックとローズの二人が、水かさが増してくる舟の中で、もがきながら、危機一髪で脱出をしていくシーンには、息がつまりました。
まさに、彼らは溺れている状態ですね。

イエス様の弟子たちも、舟に水が入り、あのような緊迫した雰囲気があったのかもしれません。
もうダメだ、と思った瞬間、舟の中で眠っておられる、イエス様の姿に気づいたのです。
そして、イエス様を起こして、助けを求めたのです。
イエス様は、起きあがって、風と荒波を叱りつけられると、波が収まり、凪になった、というのです。
そして、イエス様は弟子たちに言いました。

8:25 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

今日、最後に心に留めたい御言葉は、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という言葉です。
どこにあるのか、ということは、どこに置いているのか、ということです。
みなさん。あなたの信仰の根っこはどこにあるのか、ということです。

使徒言行録27章をお開きください。
ここにパウロがローマに向かって旅をする話が出てきます。
この時、パウロを乗せた舟が、大暴風に遭遇します。

27:20 幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。
27:21 人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。
27:22 しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。
27:23 わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、
27:24 こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』
27:25 ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。
27:26 わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」


パウロは、舟が暴風に遭遇し、舟が沈みそうになった時、神の言葉を聞きました。
この神の言葉が彼の信仰の根っことなりました。
そして、人々を励ましたのです。

宗教改革者マルティン・ルターは「back to the BIble」と言いました。
聖書に帰る。
御言葉に立ち帰る。
神の言葉こそ、信仰の根っこです。

弟子たちは、嵐に遭遇する中で、「向こう岸に渡ろう」と言われた、主の言葉を見失ったのです。
この船旅をリードするのは、主なのです。
主が語られた言葉は,必ず実現します。

パウロは、誰もがあきらめかけた時に、主の声を聞きました。
「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」と。

パウロは、この神の言葉を信じ、人々を励ましたのです。
「わたしに告げられたことは、そのとおりになります」と。

みなさん。今回、この御言葉を準備する中で、主はわたしに語ってくれました。
第一は、「あなたの舟は沈まない」と。
第二は、「私を求めなさい」と。
第三は、「私の言葉を思い起こしなさい」と。

この三つのことを、主はわたしの思いの中に語りかけてくれました。

主が共におられる舟は沈みません。
主は突風をも静めてくださり、向こう岸に導いてくださるお方です。
弟子たちは向こう岸にどんな世界が待っているのかは知りませんでした。
向こう岸には、主の驚くべき御業が待っていました。

私たちの教会が向かう、向こう岸にも、主の驚くべき御業が待っていると信じます。

今こそ、主を求めていきましょう。
弟子たちは、主を求め、主を体験し、主を求め、体験し、ということの連続の中で、主を更に深く知るようになりました。
わたしたちも、もっともっと深く主を知りたいと思います。
知識としては知っているでしょう。
頭ではよく理解しているかもしれません。
しかし、私自身、もっともっと主の恵み深さを味わい知りたい、体験したいと願いました。
弟子たちが、主に近づき、本音を叫んだように、主に求めていきましょう。

私は、このメッセージを準備する中で、主が私に語ってくれた御言葉を思い出しました。
涙を持って祈っている中で、創世記28章15節の御言葉が与えられた時のことを思い起こしました。
その御言葉をレーマとして握りしめてベテルチャーチを始めました。
これがこの教会の原点です。

28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
あなたたちの信仰はどこにあるのか。


今朝、もう一度、わたしはこの御言葉の上に信仰を置きます。
そして、主がこの清水の土地に、主が喜ばれる教会を建て上げてくださると信じ、向こう岸を目指して歩んでいきます。
主の舟は沈まない。
私たちの信仰は、主の御言葉に根ざしています。
主を求め、主の御言葉を信頼し、共に向こう岸を目指して、歩んでいきましょう。
お祈りします。

一ペトロ3:8-22「祝福の祈り」

◎2008年7月21日(月)
●一ペトロ3:8-22「祝福の祈り」
●要約 (リビングライフより)
聖徒たちは心を一つにし、互いにあわれみ、愛さなければなりません。善を行うことで、苦難を受けることが、神の御心であることを覚え、迫害と苦難が襲っても、より積極的に善を行わなければなりません。

●御言葉
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(3:8)

人間関係はキャッチボールに似ています。

投げたボールが戻ってきます。

悪のボールを受け、そのボールを投げ返し続ける限り、悪のボールは戻ってきます。

誰かがボールを変更しない限り、延々と悪のキャッチボールは続きます。

キリストが罵られてもののしり返さず、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたように、祝福を祈る人は、祝福が注がれます。

今日、あなたは誰を祝福しますか。

あなたの上に祝福が注がれますように。byバルナバ

一ペトロ2:3:1-7「家庭の祝福」

◎2008年7月20日(日)
●一ペトロ2:3:1-7「家庭の祝福」
●要約 (リビングライフより)
妻は夫に従わなければなりません。心を柔和にし、清く生きることで、夫が神に立ち返り、救われるようにしなければなりません。夫は弱い器である妻を、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなければなりません。

●御言葉
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。…同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだわきまえて生活を共にし、命の恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたの祈りが妨げられることはありません。(4:1,7)

妻は夫に従い、夫は妻を敬い、互いに仕え合い、助け合うことで家庭が祝福されます。

今日は日曜日です。

主を礼拝し、主に仕えるように家庭に仕え、主を愛するように、家庭を愛する者となりますように。

御名によって祝福します。byバルナバ

一ペトロ2:18-25「魂の牧者」

◎2008年7月19日(土)
●一ペトロ2:18-25「魂の牧者」
●要約 (リビングライフより)
ペテロはしもべたちに、横暴な主人にも従うように勧めます。不当な苦しみを受けても、善を行い、忍耐するなら、神に喜ばれます。イエスはわたしたちを義に生きる者とするため、何の罪もないにもかかわらず、苦難を受けられました。

●御言葉
そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。その受けた傷によって、あなたがたは癒されました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへもどってきたのです。(2:24-25)

イエス様は良い羊飼いです。

私たちの罪を担い、病を癒し、さまよっていた魂を正しい道へと導いてくださるお方です。

魂の牧者であるイエス様に愛され、守られ、生きる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

一ペトロ2:11-17「キリスト者の自由」

◎2008年7月18日(金)
●一ペトロ2:11-17「キリスト者の自由」
●要約 (リビングライフより)
聖徒はたましいに逆らう肉の欲を遠ざけ、りっぱな行いをしなければなりません。また、社会制度と国家の指導者に従わなければなりません。そして、その自由を悪に行う口実にせず、ただ神のしもべとして用いなければなりません。

●御言葉
自由な人として生活しなさい。(2:16)

宗教改革者ルターは「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない。
キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。」と言いました。

キリスト者の自由には二つの次元があります。

一つは「~からの自由」です。

私たちを虜にする力、罪の束縛からの自由です。

もう一つは「~への自由」です。

キリストのように人々に仕えることのできる自由です。

解放された奴隷。

それがクリスチャンです。

神の僕として善を行って歩む人は幸いです。

祝福を祈ります。byバルナバ

一ペトロ2:4-6「決して失望しない」

◎2008年7月17日(木)
●一ペトロ2:4-6「決して失望しない」
●要約 (リビングライフより)
イエスは神が選ばれた尊い生ける石です。ですから、私たちは霊の家として築き上げられ、霊のいけにえをささげる聖なる祭司とならなければなりません。私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有の民です。

●御言葉
「見よ、わたしは選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」(2:6)

岩の上に建てられた家は、嵐が襲っても倒れません。

土台がしっかりとしているからです。

あなたは何を土台に据えていますか。

イエス・キリストを信じる者は、ノックダウンすることがあっても、ノックアウトしません。

主が共にいて、必ず立ち上がらせてくださるからです。

たとえ死という最大の敵が襲ってきても、主は復活の希望で支えてくださるのです。

「この主のもとに来なさい」。

主に望みを置いて生きる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

一ペトロ1:22:-2:3「霊の乳」

◎2008年7月16日(水)
●一ペトロ1:22:-2:3「霊の乳」
●要約 (リビングライフより)
ペテロは心から互いに愛し合いなさいと勧めます。私たちが生まれ変わったことは、神のみことばによるのです。ですから、わたしたちはすべての悪と偽り、ねたみを捨てて、乳飲み子のように、神のみことばを慕い求めなければなりません。

●御言葉
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」。(2:2)

人は命あるものを食することによって、体は成長し、健康は維持されていきます。

心の成長と健康にも命ある言葉が欠かせません。

何を食べるかが体に重要なように、何を聞くかが心に重要です。

霊の乳とは、神の言葉(聖書)です。

幼子が毎日、ミルクを必要とするように、神の子は、毎日、御言葉が必要なのです。

あなたは毎日、聖書を開いていますか。

御言葉を慕い求める者は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

一ペトロ1:13-21「聖なる者となれ」

◎2008年7月15日(火)
●一ペトロ1:13-21「聖なる者となれ」
●要約 (リビングライフより)
ペテロはイエスが再臨されるときにくださる恵みを見上げ、聖なる生活を生きるように勧めます。私たちは傷もなく、汚れもないイエスの尊い血によって救われたゆえに、その方に信仰と望みを置かなければなりません。

●御言葉
「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」。(1:16)

ペトロは「聖なる方に倣って、聖なる者となりなさい」と言いました。

子を産むと誰でも母親になりますが、母親として成長する必要があります。

イエス・キリストを信じる人は、誰でも神の子になりますが、神の子として成長していく必要があるのです。

与えられている身分を自覚し、その身分にふさわしく成長していくことはとても大切です。

父親として、夫として、牧師として、神の子として、与えられた身分にふさわしく歩む者でありたい。

そう願わされました。

あなたもあなたの身分にふさわしく成長しますように。

御名によって祝福します。byバルナバ

説教 「愛は血よりも濃い」

『愛は血よりも濃い』
(ルカ8:19-21)
(2008年・7月13日・ベテル清水教会 聖日礼拝)

ある先生が説教の前に、「みなさん。今日はとっておきのジョークを言います」と言いました。
「ひょっとしたら、前にも話したことがあるかもしれませんが」と前置きをしたところ、すぐに信徒が合いの手を入れました。
教会学校の説教には良くある光景ですが、礼拝では珍しいですね。
「先生、そのジョークって笑えるジョークですか」
「もちろん、ジョークですから、笑えますよ」
すると、信徒は答えました。
「じゃ、私たちはまだそのジョークを聞いていませんね。だって先生のジョークでまだ笑ったことがないですから」。

日曜日の夜、ビデオ礼拝でCGNTVを通して大和の大川先生の説教を聞いていますが、大川先生のジョークにいつも笑わされています。
どんなにおもしろい話でも、話し方が下手だと笑いが起こりません。
どんなに良いメッセージであっても、伝え方が悪いと、相手に届かないのです。

礼拝は、教会の命であり、説教は礼拝の命であると言われます。
説教が生きると礼拝が生き、礼拝が生きると教会が生きると言われます。
どうか、わたしがいつも心に響く説教を語ることができるように。
私のためにもお祈りください。

さて、ルカによる福音書の学びを続けておりますが、今日は8章19節からの短いテキストです。
もう一度、19節をご覧ください。

8:19 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。

ここにイエス様の家族が登場します。
聖書はイエス様のプライベートにはほとんど興味がありません。
しかし、イエス様にも家族がいたのです。
マルコ6章3節を見ますと、そこには弟の名前が記されています。
ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの四人の弟がいたようです。
彼らは母と一緒にイエス様のところにやってきました。
彼らが来たとき、イエス様の周りには大勢の群衆がいました。
群衆は、イエス様の話を聞こうとして集まっていたのです。
それに対して、イエス様の家族は、どうもイエス様の話を聞くために来たのではなさそうです。
それは、イエス様のこの後の答えから読み取ることができます。
では、彼らは、何をしにイエス様のところに来たのでしょうか。
マルコ3章をお開きください。
3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。

少し前の3章の20節からご覧ください。

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。


この21節の身内の者たちとは、31節に出て来る「イエスの母と兄弟たち」のことでしょう。
彼らは、イエスのことを聞いて、取り押さえに来たのです。

私の父は、私が4歳の時に、突然、家を出て行きました。
私は幼かったので、父が家を出た理由を知りませんでした。
7年後、父が新潟で亡くなったという連絡を受け、そこではじめて、私は父が家を出た理由を知りました。

それは、普通ではあり得ないことでした。
父は大酒飲みでキリスト教には反対していました。
しかし、肝硬変になったり、建築現場で働いているときに、高いところから転落して大けがをしたことがきっかけとなり、変化が起こりました。
ある日、魚釣りをしている時に、主が現れ、ペトロのように「私に従いなさい。あなたを人間を獲る漁師にしよう」という招きを受けたそうです。
母も、その時に、主からの語りかけを聞いて、父は、残された命を主のために捧げる決心をして、家を出ました。

しかし、この出来事は、当時、母が通っていた教会の先生たちには受けとめてもらえなかったようです。
母は私たち家族にも、このことは全く話さなかったので、私は父がどこで何をしているのか、全く知らないまま7年間を過ごしたのです。
母は、父が体が悪かったので、途中で病気で亡くなったのではないかとも思っていたようです。


もし、あの時、途中で、どこかから連絡が入って、父が野宿をしながら、トラクトを配り歩いているということを聞いたら、おそらく私たち家族は、父のいるところに飛んでいったと思います。

もし、その父の行為を見て、「あれは気が狂っているぞ」とか「頭がおかしいんじゃない」という噂が私たちの耳に届いていたら、きっと、私たちは、父がいるところに言って、「お父ちゃん、お願いだから、そんなことはやめて」と止めに言ったかもしれません。

たとえ母には理解できても、まだ信仰がよく分かっていなかった私にはとても理解できなかっただろうと思います。
ですから、私にはイエス様の兄弟たちが、マリアと共に、イエス様に会いに行った気持ちがよくわかるのです。

母マリアはイエス様が生まれたときに、天使のお告げを聞いています。
聖霊によって身ごもったのですから、この子が特別な使命を持っていることは分かっていたのです。

ですから、イエス様が30歳になって、家を出て、神の国を伝え始めた時には、ついにこの時が来たと思っていたことでしょう。
マリアはイエス様が家を出て行ったことを受けとめていました。
しかし、弟たちには理解できなかっただろうと思うのです。
しかも、家族に聞こえてくる声は、いいものもあれば悪いものもあります。
特に、長老や聖書学者たちの間では評判が悪いのです。
悪霊につかれていると言われ、このままでは、大変なことになると思ったのでしょう。

「お母さん。お兄さんを連れて帰りましょう。みんなから変な噂を立てられているよ。役人たちからも目を付けられていて、このままでは大変なことになるよ。早く、取り押さえに行こう」
そして、マリアとその息子たちは、イエス様を家に連れ帰ろうとやって来たのです。

8:20 そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。
8:21 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。


今日の説教のテーマは「愛は血よりも濃い」です。
神の言葉を聞いて行う人とは、私たちクリスチャンのことです。
私たちクリスチャンは、主にあって神の家族です。

先週、尾上聖愛教会で「イエスの弟子たち」という韓国からの宣教チームが来て、ゴスペルコンサートが行われました。
急遽、祈祷会を変更して、参加しました。
そこで「リナとカナ」という二人の姉妹が証しされました。
彼女たちは、在日三世の双子です。

日本で育ちながらも、血は韓国人です。
しかし、言葉は日本語しか話せず、顔も韓国に行っても、日本人と間違えられるそうです。
4年間、韓国に留学し、この度、二人はゴスペルシンガーとして、ディオを組んでデビューすることになったそうです。

彼女たちは悩みました。
血は韓国人。故郷は日本。
彼女たちは、日本と韓国を愛しているそうです。
しかし、彼女たちの悩みは、自分の祖国はいったいどっちなのか。
韓国にいると、日本人に間違われ、
日本にいると、韓国人として扱われる。
ずいぶんと悩んだそうです。

しかし、ある時、神様が語ってくれたそうです。
「あなたの国籍は天にある」と。

まさに彼女たちは、血の絆を越える世界を発見したのです。
愛の絆によれば、日本も韓国もない。
神の家族だ。
自分たちは、両方の国を愛せることができて感謝だと。

「愛は血よりも濃い」
今日の説教のテーマです。
神の家族には、血の絆はありません。
もちろん、血の絆のある人もいます。
しかし、血の絆のない人もいるのです。
神の家族には、国籍の違いもありません。
神の家族には、身分の違いもありません。
神の家族は、愛の絆によって結ばれているのです。

みなさん。家族のない人は一人もいません。
家族なしにこの世に存在した人は一人もいません。
今、私が生きていることは、血の絆によるのです。
血の絆なしに、私たちの存在はないのです。

血の絆は大切です。
血の中に命がありますから、血の絆は命の絆です。

しかし、家族には、血の絆だけでは不十分です。
神の家族が愛の絆によって一つにされているように、
家族には愛の絆が必要です。

「血は水よりも濃い」と言われます。
これは「親子・兄弟など血筋を引いたつながりは他人との関係より緊密である」という意味です。
「家族の絆は、世間の絆よりも強い」

みなさん。家族の絆の本質は何でしょうか。
家族は何によって結びついているのでしょうか。

家族の絆の本質は「血」ではありません。
家族の絆は、血によるのではありません。
なぜなら、家族を形成する夫婦関係には「血」のつながりがないからです。

神様が人間を造られた時、アダムとエバを造られました。
アダムとエバは家族の原型です。
神様はアダムにエバを与えて、家族を形成させられたのです。

神様は親子という血筋から家族を造られたのではありません。
神様は夫と妻という愛の関係から家族を造られたのです。
ですから、夫婦関係には「血」の結びつきはありません。
しかし、この二人が「愛の絆」に結ばれることによって、血のつながった子どもが生まれたのです。

みなさん。家族の絆の本質は「愛」です。
家族は「血」によって一つなのではなく、「愛」によって一つなのです。
家族の絆に愛は欠かせないのです。
たとえ、血のつながりがなくても、そこに愛があれば家族が生まれます。
たとえ、血のつながりがあっても、愛がなければ家族関係は壊れます。
我が家には犬と猫の二匹のペットがいます。
私は本来、動物が苦手です。
猫はひっかくし、犬はかみつくというイメージがありました。

今から9年前に、長女が捨て猫を拾ってきました。
ちょうど、その日、私は旅先で、捨て猫のドキュメンタリーを見た後だったので、ダメだと言えませんでした。
来年で10年になります。
ミーナは、今ではなくてはならない家族の一員です。
当然、猫には血のつながりはありませんが、愛があります。
愛することによって猫も我が家の一員となりました。

また、3月には、次女が中学を卒業したら犬を飼いたいと言いました。
私自身、犬を飼うことで、近所を一人で歩くよりは、犬と歩く方がいいとは思っていましたが、誰か譲ってくれる人があれば考えてもいいかなという程度で、わざわざ買ってまで飼おうとは思っていませんでした。
す。
しかし、娘の卒業式の日に、私の携帯に重延先生から電話がなって、「先生、犬要りませんか」というのです。
これは、神様の導きだと信じて、すぐに行って、もらってきたのが、ベルです。

我が家にきてまだ4ヶ月にしかなりませんが、今では、すっかり家族の一員となりました。

ミーナも来年で10年になりますが、人間の年齢で言えば50歳を越えました。
いつの間にか私の年齢を超えているのです。
もし、あの時、娘が拾わなかったら、どうなっていたんだろうと思います。
猫は、捕獲されてから4日、犬は5日で、処分されるそうです。
しかも、娘が猫を拾った公園のすぐ裏が保健所です。
最初は、何で拾ってきたんだ、と思いましたが、家族となった今は、よくぞ拾ってくれた、という思いです。

今、世の中では、家族関係が壊れています。
血は水よりも濃いと言われますが、
実際は、血は水よりも薄いという現実があるのです。


先月、教会の側壁に十字架が取り付けられましたが、これを取り付けてくださった方は、大阪にある堺キリスト教会の教会員の方でした。
実は、わたしの母の姉、わたしの叔母が通っている教会の方でした。

何度もお話していますように、わたしの祖父は、お坊さんでした。
祖父は母が生まれてすぐに、30歳という若さで亡くなります。
祖母は、わたしの母を養女に出しました。
母は、養女として育てられ、20歳の時に、自分が養女であることを知り、ショックを受けます。
そして、友達に誘われて教会に行くようになり、洗礼を決心します。

当時は、キリスト教は「耶蘇教」と言われ、迫害されていた時代です。
家族は大反対です。
しかし、母はその反対を押し切り、洗礼を受けました。
その結果、家を追い出されました。
親戚筋に耶蘇教はいない。
耶蘇になるなら、出て行けということです。

母がキリスト教になったことで、生みの母からも絶縁されました。
一切のつきあいがなくなりました。
「血は水よりも濃い」といいますが、母にとって、血は水よりも薄くなりました。
しかし、水よりも、血よりも濃いものがありました。
それは神の愛です。
神の愛は、水より、血よりも濃い。

母は、どこに行っても、まず教会を探し、教会に通います。
そこで多くの信仰の友に出会います。
血の絆にまさる愛の絆をたくさん持ちました。
それは今では母の財産であり、まだ生きていますが、母の最大の遺産でもあります。
愛の絆は、奇跡を起こしました。

祖母が亡くなる前、母は、今、大阪にいる母の姉、わたしの叔母から連絡があり、祖母の看病をするようになりました。
母にとっては、自分を捨てて母親です。
しかし、愛の絆によって、母を赦し、祖母の最後の世話をしました。

意識がもうろうとし、もはや母に対して、何も言いません。
母は、ただ祖母のために祈り続けました。
そして、わたしを呼んで、わたしもはじめて、祖母にあって、祖母のためにはじめて祈ることができました。

その帰り道、叔母の家に行って、叔母のためにも祈りました。
叔母は、わたしの祈りを涙を流しながら受けとめてくれました。
それから間もなく、祖母は亡くなりました。

叔母は、その年のクリスマスに、イエス様を信じて洗礼を受け、今では、毎週、教会に通っています。

今、私は叔母が同じ神の家族の一員となったことを喜んでいます。
血筋の絆ではなく、信仰の絆によって結ばれたことを喜んでいます。

愛は血よりも濃い。
神の愛は、家族を回復させます。

みなさん。私たちは神の家族です。
愛の絆によって一つの家族なのです。

この愛の絆によって、血の絆である家族を愛し、家族の絆を強めていきましょう。
愛することは祈ることです。
家族の絆が強められるように祈りましょう。

この愛の絆によって、神の家族を愛し、絆を強めていきましょう。
互いに愛し合い、愛を実践する者となりましょう。
互いの違いを認め合い、助け合い、補い合っていきましょう。
愛することは祈ることです。
互いに愛し合い、祈り合って、愛の絆を深めていきましょう。
お祈り致します。

一ペトロ1:1-12「試練の中で喜ぶ」

◎2008年7月14日(月)
●一ペトロ1:1-12「試練の中で喜ぶ」
●要約 (リビングライフより)
ペテロは散り散りになった神の民に望みを伝える手紙を書きました。神は私たちを救われ、朽ちない永遠の相続を備えてくださいました。ですから、信仰の試練に喜んで耐える者は、称賛と光栄と栄誉を得るようになります。

●御言葉
あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。(1:7-9)

試練に遭うとき、信仰が試されます。

試練を乗り越えた後の喜びもありますが、試練の最中にも喜びがあります。

「いつも喜んでいなさい」。

主にあって喜べる人は幸いです。

今日も祝福を祈ります。byバルナバ

アモス9:7-15「回復の時」

◎2008年7月13日(日)
●アモス9:7-15「回復の時」
●要約 (リビングライフより)
神は罪を犯した国を滅ぼされますが、ヤコブの家だけは完全には滅ぼされません。神はダビデの壊れている仮庵を起こされ、その破れを繕われ、昔の日のように回復されます。

●御言葉
わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒らされた町を立て直して住み、ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み、園を造って、実りを食べる。(8:14)

今日でアモス書が終わります。

アモスは厳しい裁きを告げましたが、最後は回復の預言を語ります。

黙示録も最後の審判が語られますが、最後は天国の情景が語られます。

十字架(苦しみ)の向こう側には復活(回復)の世界があります。

主に立ち帰って生きる人は、残りの者です。

切り株から若枝が生じるように、必ず回復の時は来ます。

今日は日曜日です。

復活の主を信じ、共に礼拝していきましょう。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

アモス8:11-9:6「御言葉の飢饉」

◎2008年7月12日(土)
●アモス8:11-9:6「御言葉の飢饉」
●要約 (リビングライフより)
神はイスラエルに神のみことばを聞けなるなる飢饉を起こされます。それでも依然として偶像に助けを求める者たちは、すべて滅びます。神が裁きを始められる日には、一人として生きる残ることも、それを避けることもできません。

●御言葉
見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。(8:11)

主の言葉は、命のパンです。

人はパンなしには生きられませんが、パンだけでも生きられないのです。

人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる者です。

イスラエルの最大の危機は、この命のパンを失うことです。

御言葉は命のパンです。

このパンを毎日食し、心と魂を満たして生きる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

アモス8:4-10「与える者は幸い」

◎2008年7月11日(金)
●アモス8:4-10「与える者は幸い」
●要約 (リビングライフより)
神は貧しい者たちを踏みつけ、滅ぼす者たちの罪を永遠に忘れないと語られました。神のさばきが臨めば、全地が震え、ナイルの川のようにわき上がっては沈み、真昼でも暗闇です。彼らの喜びは間もなく哀歌に変わります。
●御言葉
主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。(8:7)

神様は貧しい人たちから搾取し、農民を苦しめるイスラエルの罪を決して忘れないと言われました。

イエス様は「これらの小さな者にしなかったことは、わたしにしなかったことだ」と言われます。

与えるべき相手の中にイエス様の姿を見る必要があります。

物質的な豊かさは、与えるときに精神的な豊かさをもたらします。

与える人はさらに豊かになり、奪う人は、やがて豊かさを失います。

今日、あなたはどちらの道を歩みますか。

与えて生きる人は幸いです。

ここに神の国があります。

祝福がありますように。byバルナバ

アモス7:10-8:3「御言葉を聞け」

◎2008年7月10日(木)
●アモス7:10-8:3「御言葉を聞け」
●要約 (リビングライフより)
アマツヤはヤロブアム王にアモスを告発し、イスラエルで預言せず、ユダに帰れとあざけりました。このために、アマツヤの家に恐ろしい災いが宣言されました。神はアモスに一かごの夏のくだものの幻を見せられました。

●御言葉
今、主の言葉を聞け。(7:16)

アモスの語る主の言葉は、ヤロブアム王には聞きたくない言葉でした。

彼は主の言葉を避け、アモスを追放しようとします。

しかし、アモスは語り続けます。

聖書の御言葉は、時には厳しく語りかけてきます。

御言葉を遠ざける人は、神様を遠ざける人です。

御言葉に近づく人は、神に近づく人です。

神に近づく時、人は赦しと解放が与えられます。

今、主の言葉を聞いて、主に立ち帰る人は幸いです。

今日も祝福を祈ります。byバルナバ

アモス7:1-9「執り成しの祈り」

◎2008年7月9日(水)
●アモス7:1-9「執り成しの祈り」
●要約 (リビングライフより)
神はアモスに、いなごが草をすべて食い尽くしてしまう幻、火が海だけではなく陸地までも燃やしてしまう幻、神が重りなわをもっておられる幻を見せてくださいました。神はイスラエルに重りなわを降ろされ、彼らをさばかれます。

●御言葉
主はこれを思い直され、「このことは起こらない」と言われた。(7:3)

アモスは滅びゆくイスラエルの幻を見せられ、必死で祈り、主は思い直します。

かつてアブラハムも滅びゆく町のために執り成し祈り、ロトとその家族は救い出されました。

キリストは、滅びゆく魂を救うために、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈り、今も、その祈りは続けられ、神は忍耐を持って悔い改めて、主に立ち帰る人々が起こされることを待っておられるのです。

やがて終わりの日は来ます。

その日が来る前に、神に立ち帰る人、そのために執り成し祈る人は幸いです。

あなたは今日、誰のために祈りますか。

今日も祝福を祈ります。byバルナバ

アモス6:1-14「非偶像三原則」

◎2008年7月8日(火)
●アモス6:1-14「非偶像三原則」
●要約 (リビングライフより)
イスラエルの指導者たちは贅沢と放蕩の生活に陥り、滅亡に向かっている国の運命について悟ることができません。ですから、彼らは一番先に捕虜として引いて行かれます。神は一つの民を起こされ、イスラエルをさばかれます。

●御言葉
主なる神はご自分を指して誓われる。万軍の神なる主は言われる。わたしはヤコブの誇る神殿を忌み嫌い、その城郭を憎む。わたしは都とその中のすべてのものを敵に渡す。(6:8)

神殿は、神様を礼拝する場所として建てられました。

しかし、イスラエルの指導者たちは、聖なる場所に、主が忌み嫌われる偶像を持ち込んだのです。

その結果、礼拝は汚され、民は堕落し、やがて国は滅ぼされ、バビロンへと強制連行されてしまいます。

偶像は、核と同じように平和を脅かし、破滅を来たらせます。

偶像は、非核三原則のように、持たない、作らない、持ち込まない。

これが人生の祝福と平和の秘訣です。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

説教 「光が見えるように」

『光が見えるように』
(ルカ8:16-18)
(2008年・7月6日・ベテル清水教会 聖日礼拝)


ハワイに92歳の非常に元気なおじいちゃんがいたそうです。
このおじいさんと話をすると、周りの人も元気になります。
ある人が聞きました。
「おじいさん。どうしたらそんなに長生きができるの?」
すると答えました。
「長く生きる秘訣は、息をするのを忘れないことじゃ」
このおじいさんの明るさの源は、ユーモアさにありました。

実は、このおじいちゃんのパートナーであるおばあちゃんも87歳になりますが、非常にユーモアな人でした。
川柳会というのに入っておられて、そこでもユーモアを発揮しています。
その川柳の最新作は、「あわぬはず  じいさんそれは わたしの歯」。

今、世界で成長し、多くの人々が集まる教会には一つの特徴があるそうです。
それは、教会の中に笑いがあるということです。

ホスピス医療の第一人者である柏木哲夫さんは、大阪にあります淀川キリスト教病院で20年間、ホスピス長として働いてこられました。
柏木先生は、ユーモアについて、ある書物でこんなことを言っています。

老いを前向きに受け入れていないとユーモアは出てきません。
老いを嘆き、つらさとやるせなさだけを見る人からは出てきません。
上智大学のデーケン教授は、ユーモアを 「にもかかわらず笑うこと」 と定義します。
 元気だからユーモアが出るのではなく、ユーモアが出るから元気なのでしょう。「にもかかわらず」 という状況で最も笑いにくいのは、死が近いときでしょう。
 にもかかわらず、笑うことができる人はいます。
末期の肺がんの人で、せきがひどく苦しい時、「このせきは小錦に来てもらわないと、とれそうもありません」と言いました。
 関取と 「せきとり」 をかけた この人独特のユーモアでした。
死が近いにもかかわらず、ユーモアを無理なくふりまくことができる人はすばらしい。

ユーモアとは、「にもかかわらず笑う」。「にもかかわらず」
笑えない状況でも笑う。
昔から、「笑う門に福来たる」と言います。
にもかかわらず笑う。
これは難しいことですが、大切なことです。

パウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と言いました。
これは私たちの教会の年間聖句です。

これは、まさに、にもかかわらず喜ぶ世界です。
にもかかわらず祈る世界です。
にもかかわらず感謝する世界です。

喜ぶ門に福来たる。祈る門に福来たる。感謝する門に福来たる。
もう一つ、付け加えるならば、にもかからず讃美することです。

讃美する門に福来たる。
福とは、祝福です。
私たちの周りの状況がどうであろうとも、にもかかわらず、喜びと祈りと感謝と讃美を主に捧げるならば、神様の祝福が注がれると信じます。

さて、ルカによる福音書の学びを続けておりますが、先週、種まきのたとえから御言葉を学びました。
今日のたとえ話も、種まきのたとえに関連した内容です。
もう一度、聖書をご覧ください。

8:16 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。

今はオール電化の時代でありますが、もし、電力がストップしたら、私たちの生活は大変なことになります。

イエス様の時代、各家庭には、当然、今のような電気設備はありません。
夜になると、各家庭は、必ずランプを灯しました。

今日と同じ内容が記されているマルコの4章21節をご覧ください。
4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。

ルカでは「器」となっていますが、マルコでは「升」となっています。
この「升」とは、お米のような穀物を量るための器です。
ですから、ルカでは「器」となっているのです。
器で覆い隠したり、というのは、実は、ランプを消すときに、その器が用いられたのです。

灯し火を付ける目的は、部屋の中を明るくするためです。
夜になり、部屋が暗くなると生活ができません。
ですから、ともし火をつけて、部屋を明るくしたのです。
それを、器で覆って消すというのは、愚かな行為です。

照明器具というのは、ほとんどの場合、天井につけていますね。
ともし火は、部屋全体を明るくするために、燭台に置きました。
それを、寝台の下に置いたりする人はいません。
それまた愚かな行為です。

イエス様は言いました。
8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。

みなさんは、この言葉をどのように受けとめておられるでしょうか。

ここ最近、様々な分野で偽造問題が新聞紙面をにぎわしています。
今、どの会社でも、内部告発というものを非常に恐れています。
新聞やインターネットで噂が広まることも恐れています。

今、芸能界を始め、いろんな分野でブログを書く人が増えています。
また、中高生なども、安易な気持ちでブログを作って、友達に公開しています。
ブログというのは、公開日記でありまして、それは、インターネットの検索にかかると、誰でも見ることができますので、恐ろしい世界です。
正直な気持ちを書いたことでも、それが第三者の目に触れ、その内容が告発されて、芸能活動をストップにおいやられた女優もいました。

現代社会は、告発社会です。
隠れているもので、あらわにならないものはない。

私たちは、このイエス様の言葉を、どのように受けとめるべきでしょうか。
倫理道徳的に受けとめ、私たちがどんなに隠し事をしても、いつかはばれてしまう。
覚悟しておきなさい、と警告されているのでしょうか。

みなさん。悪魔、サタンという言葉は、「訴える者」「告白者」という意味があります。
ヨハネ黙示録の12章9節には、悪魔が滅ぼされる時の様子が描かれています。
12:9 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
12:10 わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、/昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、/投げ落とされたからである。


みなさん。悪魔は私たちの罪を告発する者です。
現代は告発社会です。
それは、まさに悪魔の力が強く働いていることを思い知らされます。

隠れているもので、あらわにならないものはない。

これは現代社会に対する警告として、イエス様が語られているのでしょうか。

数年前「誰にも秘密がある」という韓国映画がありましたが、秘密を持っていない人はいないでしょう。
誰の心にも秘められた思いというものはあります。

確かに、やがて神様の前で、私たちのすべての罪は明らかにされる時は来るでしょう。
露わにされるときがくるでしょう。
それは聖書的には正しい解釈です。

しかし、それは最後の審判の時であって、しかも、その時に、キリストの十字架によって、その全ての罪と咎が赦されるというのが、十字架の福音です。

ですから、ここでイエス様は、あなたたちの隠された罪は、いつか露わにされる時が来る、という警告をされたのではありません。

実は、ファリサイ派の人々は、告発者のように、罪を犯した人々を人々の前に連れ出して、断罪しました。
7章の終わりで学んだ、罪深い女性の時もそうです。
シモンは、言葉にこそ出しませんが、心の中で、この女性を告発していたのです。
しかし、イエス様は、彼女の過去や罪を露わにすることを赦さず、彼女を赦したのです。
つまり、イエス様のされることは、罪を露わにすることではなく、罪を覆い隠すことでした。
そこにイエス様の愛があります。

ですから、ここで、イエス様が言われている言葉は、罪を露わにするという意味ではありません。
隠れているもので、あらわにならないものはない。

では、どういう意味でしょうか。
この隠れているものとは、罪ではなく、光です。
ともし火です。
イエス様が灯された火です。
弟子たちの心に蒔かれた種です。
神の国を形成する御言葉の種です。

この火は、必ず露わになるということを言われたのです。

みなさん。弟子たちは、神の国の奥義を知ることをゆるされました。
そして、弟子たちの心には、御言葉の種が蒔かれました。
それは、小さな火種です。
小さなともし火ですが、弟子たちの心には、火が灯っていたのです。

この火は、今は隠されていても、やがて露わにされるというのです。
私たちの心に灯された光は、私たちが器で覆って隠そうとしても、寝床に隠していても、やがて露わにされる時が来るというのです。

みなさん。弟子たちは、この光をいつから見せることができるようになったのでしょうか。
いつからこの隠された光は、露わにされたのでしょうか。
それは、ペンテコステです。
ペンテコステの時に、弟子たちが聖霊に満たされました。
その時に、彼らの内側にある灯し火に、聖霊の油が注がれて、燃え上がっていったのです。

彼らの心に蒔かれた御言葉が30倍、60倍、100倍の実を結ぶようになったのは、彼らが聖霊に満たされてからです。

弟子たちが、迫害にもかかわらず伝道し、牢獄の入れられたにもかかわらず讃美し、福音を宣べ伝えることができたのは、聖霊の油が注がれたからです。

みなさん。聖霊に満たされるならば、私たちの内側にあるともし火を、人々に見せることができるのです。
弟子たちは、聖霊に満たされることによって、彼らの中にある光が見えるようになったのです。

今朝、覚えたいことは、私たちの内側に聖霊の火がないのではありません。
聖霊の火は、すでに灯されているのです。
イエス・キリストを信じることによって、火は灯っているのです。
イエス様は、その光を輝かせなさいというのです。
たとえ、今は輝いていなくても、必ずその光は明らかになるというのです。
弟子たちは、聖霊に満たされて、変貌しました。
隠されていた光が外に現れてきました。
私たちも、聖霊に満たされ、内なる光を輝かす者となりましょう。

聖霊に満たされるように、聖霊を求めて共に祈りましょう。
聖霊に燃やされるように、聖霊を求めて共に祈りましょう。
そして、ともし火を燃やして、人々の前に、光を輝かせましょう。

第二番目
8:18 だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」

この「注意しなさい」と訳されている言葉は、「よく見なさい」という意味です。
聞くという言葉には、門構えに「耳」と書く「聞く」と、聴診器の「聴」という言葉の「聴く」というのがあります。

英語で言えば「hear」と「listen」ですね。

パウロは「信仰は聞くことから始まる」と言いました。
種が蒔かれなければ、実を結ぶことはありません。

先週、種まきのたとえを学びましたが、そこで、イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言いました。
「どう聞くべきかに注意しなさい」は、同じことを言っています。
つまり、御言葉を、ただ聞くのではなく、心を傾けて聞きなさい。
「どう聞くべきかに注意しなさい」とは、御言葉に注目しなさい、ということです。

今日、二つ目に心に留めたい御言葉は、
持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」
という言葉です。

これは何を言っているのでしょうか。
何を持っている人でしょうか。
それは、ともし火です。
ともし火とは、聖霊であり、
神様を持っているということです。
神様が共にいるということです。

ここで持っている人とは、神様が共にいる人のことです。
持っていない人というのは、神様が共にいない人のことです。
神様が共にいる人は、更に祝福が与えられるのです。
神様が共にいない人は、神様が共にいると思っている思いまで取り上げられるのです。

みなさん。私たちは、持っているという思いを失う経験をすることがあります。
それは、持っていないということに気づいた時です。


たとえば、免許証に置き換えて考えてみましょう。
車を運転する人は、いつも免許証を持っています。
免許証を持っていると、お巡りさんは怖くはありません。
違反を犯さない限り、罰金を払うことがありません。
しかし、免許証を持っていないことに気づくと、お巡りさんは怖いですね。

持っていないことに気づくまでは、平気なのです。
しかし、持っていないことに気づいたらどうでしょう。
たちまち平気ではなくなります。

以前、車の車検が切れていることに気づかずに乗っていました。
気づいた途端、家に帰るまで、本当にドキドキしました。
持っていない人は、持っていると思っているものまで取り去られるとは、まさにこのようなことなのです。

それと反対に、持っているにもかかわらず、持っていないと思い込むこともあります。
以前、銀行に行って、ATMの機械からお金を引き出そうとしました。
すると、財布の中に銀行のカードがないのです。
あっそうだ。この間、お金を引いたときに、カバンに入れたままだ。
せっかく、銀行に来たのに、また家に帰らないといけません。
今日中に、どうしても必要だったからです。

仕方なく、家に帰りました。
家に帰ってカバンを開いてもないのです。
あれっ。おかしいなと思って、もう一度財布を見てみました。
すると、財布に入っていたのです。
いつもと違う場所に差し込んであったのです。
持っているのに、持っていることに気づかないケースもあります。

みなさん。イエス様がここで「持っている人」というのは、私たちクリスチャンのことです。
イエス様を信じ、いうならばイエス様を心の内に持っている人のことです。
イエス様を信じた人は、心にともし火が灯されるのです。

みなさん。悪魔は、私たちが持っている思いを奪い去ろうと働いてきます。
持っているのに、持っていないかのように思わせてきます。
私たちのともし火を、器で覆い隠させようとします。
あるいは、寝台の下に置いて、目立たないクリスチャンにしようと働きます。
私たちの内なる火は燃えているのです。
器を取り除き、光を見えるようにしなければならないのです。

持っていないかのように生きるのではなく、持っている光を輝かせて生きる者となりましょう。
悪魔に欺かれないようにしましょう。
たとえ、持っていることを忘れてしまうことがあっても、
内なる光は、隠されたままでは終わりません。
必ず明らかになるときが来ます。
リバイバルするときが来ます。
このベテルチャーチも、必ず隠された光が明らかになるときが来ると信じます。
持っている者は、さらに与えられる。

持っているのに、持っていないかのようにではなく、
持っていないのに、持っているかのようにでもなく、
持っているのだから、さらに与えられるように、聖霊を求めて祈っていこうではありませんか。
お祈り致します。


アモス5:14-27「善を求めよ」

◎2008年7月7日(月)
●アモス5:14-27「善を求めよ」
●要約 (リビングライフより)
善を行わず、悪を謀ったイスラエルはさばかれ、嘆き悲しみます。嘆き悲しむ者が足りないほど、その苦痛はひどいものです。彼らが慕う「主の日」はさばきの日になり、神は彼らの祭ときよめの集会を喜ばれません。

●御言葉
善を求めよ。悪を求めるな。お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように万軍の神なる主は、お前たちと共にいてくださるだろう。(5:14)

聖書には「~せよ。そうすれば~であろう」という約束を伴う命令が多く出てきます。

神は善を求め、善を愛する人と共にいます。

悪を求めず、悪を憎む者と共にいます。

神様の命令を心に刻み、従順して生きる人の人生には祝福が伴います。

神と共に生きる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

アモス5:1-13「主を求めよ」

◎2008年7月6日(日)
●アモス5:1-13「主を求めよ」
●要約 (リビングライフより)
アモスはイスラエルの滅亡を見通し、哀歌を唱えました。「わたしを求めて生きよ」と神は語られましたが、イスラエルは不法と不正と偽りを繰り返し、結局、彼らが積み上げた罪悪のために立ち返ることができなくなりました。

●御言葉
「わたしを求めよ、そして生きよ」。(5:4)

かつてヤコブはベテルで主に出会い、祭壇を築き、礼拝を捧げました。

しかし、イスラエルの民は、この場所に偶像を持ち込み、主を求めず、物質や富を求めるようになりました。

「偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。」(詩編115:8)。

偶像には命がないように、偶像に依り頼む者は命を失います。

しかし、主は永遠に生きておられ、主を求める者は、永遠の命が与えられ、生きた者となるのです。

あなたは何を求めていますか。

今日は日曜日です。

すべての必要を満たしてくださる主を求め、生きた者となりましょう。byバルナバ

アモス4:1-13「神と出会う備え」

◎2008年7月5日(土)
●アモス4:1-13「神と出会う備え」
●要約 (リビングライフより)
イスラエルは贅沢にふけり、弱者をしいたげ、ベテルとギルガルで偶像崇拝の罪を加えました。神は彼らを飢饉、干魃、雨風、立ち枯れ、黒穂病、戦争などで打たれましたが、彼らは罪から立ち帰りませんでした。

●御言葉
イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ。(4:12)

「しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる」。

この言葉が何度も繰り返されます。

神はあらゆる方法を持って、イスラエルの民を立ち帰らせようとしました。

しかし、イスラエルは立ち帰ろうとせず、ついに国を失います。

「イスラエルよ」。

ここに自分の名前を入れて黙想しましょう。

あなたは神に出会う備えが出来ていますか。

今日は土曜日。

明日の礼拝のために備える日です。

主に立ち帰り、礼拝を待ち望みましょう。

今日も祝福がありますように。byバルナバ
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