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イザヤ13:17-22「遅れることはない」

◎4月30日(水)
●イザヤ13:17-22「遅れることはない」
●要約 (リビングライフより)
神はバビロンをさばかれるためにメディヤを怒りの兵器として用いられます。メディヤ仁たちは金銀に関心が無く、残酷な殺傷を行います。バビロンはソドムとゴモラのようになり、代々だれも住む者がなくなります。

●御言葉
その日が遅れることは決してない。(13:22)

イザヤの預言どおり、その日が来ると、バビロンはメディヤに滅ぼされます。

聖書の預言の多くは実現し、これからも実現していくでしょう。

聖書の視点から世界を見ると、終末が近いことを知ります。

人は自分の終末(死)が近いことを知ると、そこから新しい生き方が始まると言われます。

神様は一人一人に対しても、人類に対しても「その日」を備えておられます。

その日が来ることを知り、新しい生き方(神と共に生きる生き方)を身につけて生きる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ
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イザヤ13:1-16「義の太陽」

◎4月29日(火)
●イザヤ13:1-16「義の太陽」
●要約 (リビングライフより)
バビロンに対する警告のみことばです。バビロンとの戦いのために、神が勇士たちを呼び集められます。神はバビロンに激しい怒りを注がれ、彼らは破滅します。神は悪者の罪を罰せられ、高慢な者のおごりを断ち切られるお方です。

●御言葉
天のもろもろの星座は光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を輝かさない。(13:10)

太陽が昇れば朝が来ます。

人生、どんなに辛い夜を過ごしても、必ず日は昇り、朝が来ます。

太陽が昇っても、目を覚まさなければ朝を迎えられません。

イエス様は太陽のような存在です。

太陽の光を受け、月が輝くように、私たちもイエス様の光を受け、輝くことができるのです。

義の太陽(イエス・キリスト)はすでに昇っています。

目を覚まし、太陽の光を心に迎え入れて生きる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ12:1-6「主は救い主」

◎4月28日(月)
●イザヤ12:1-6「主は救い主」
●要約 (リビングライフより)
その日にエルサレムの残りの者たちは「神は私の救い」と告白するのです。神は私たちの力、ほめ歌、救いとなられます。その日にシオンは極めて美しいことを行われた神の御名を全世界に宣言します。

●御言葉
見よ、わたしを救われる神、わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった。(12:2)

イエス・キリストは私たちの救い主です。

救いが訪れると、感謝が生まれます。

祈りと讃美が生まれます。

喜びが生まれます。

救いを体験した人は、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する世界が訪れるのです。

救い主を信頼し、恐れず、このお方から日々、エネルギーを受け、讃美して生きる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

説教 「実によって木を知る」

『実によって木を知る』
(ルカ6章43-49)
(2008年・4月27日・ベテル清水教会 聖日礼拝)

ルカによる福音書の学びを続けておりますが、先週は「道案内する人、される人」というタイトルで御言葉を学びました。

私は結構、抜け道を走ったり、見つけたりすることが好きで、車が渋滞していると、道を知らなくても、路地に入って抜け道を探そうとします。
結局、抜けられなくて、また戻って、余計に時間がかかるという失敗もすることが多いのですが、抜け道を見つけたときには、たとえ僅かな時間しか変わらなくても、ちょっとした快感があるんですね。

ある時、渋滞にひっかかって、どこか抜け道はないかなと考えていました。
すると、前の車がさっと左折して曲がっていったので、きっとこの車は道を知っているのだと思い、わたしもついて行ったんですね。
すると、私の後ろからももう一台、ついてきたので、私の判断は間違っていないと思いました。
しばらくすると段々道が狭くなり、前の車が止まり、Uターンしてくるんですね。
何と道に迷ったみたいであり、後ろを走っていた車は、道を知っていて、いつの間にかいませんでした。
道案内人が道を知らなければ、路頭に迷うということを実感しました。

私たちは盲人であり、道案内が必要な人です。
盲人が穴に落ちない方法は、盲人の手引きではなく、目が開かれた人、道を知っている人に手を引いてもらうことです。

私たちの人生を導くお方はイエス・キリストであり、キリストは私たちの手を取って導いてくださるお方です。
御言葉は足の灯火であり、私たちは御言葉に導かれて生きる者です。

盲人が穴に落ちない二つ目の方法は、自らの目が開かれることです。
目が見えると、落とし穴には落ちません。
道を知っている人は、迷うことがないのです。
イエス様は私たちの手を引いてくださるのですが、それと共に私たちの目をも開いてくださるお方です。

神様の御心は、私たちが御言葉によって導かれ、目が開かれて、神の国の道案内人として生きることなのです。
これが前回のメッセージの内容でした。
今日はその続きの箇所です。
もう一度聖書をご覧ください。

6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。


新共同訳聖書の小見出しには「実によって木を知る」とあります。
「実によって木を知る」
これが今日の説教題です。

「実」と「木」は一つです。
「実」は「木」の一部です。
「実」は「木」の実体を表します。
「実」を見れば「木」が分かるのです。

いちじくが実れば、その木がいちじくの木だと分かりますし、
ぶどうが実れば、その木がぶどうの木だと分かります。

みなさん。「実」と「木」はどちらが重要でしょうか。
「実」がなっていない時も、「木」は存在しています。
しかし、「木」がなければ、「実」は存在しないのです。

「実」は、自分の力で実を結ぶのではありません。
「実」は、木から力を受けて、実を結びます。
「実」にとって、「木」の存在は不可欠なのです。

みなさん。私たち人間を「実」にたとえるならば、神様は「木」です。
私たち人間がいなくても神様は存在します。
私たちが造られる前から、神様は存在していました。

もし、神様が存在しなければ、私たちの存在もあり得ません。
木がなければ実がならないように、
創造主がいなければ、被造物はできなかったのです。

神様は木のようなお方です。
私たちはその枝であり、枝は木に結びついてこそ、豊かな実を結ぶことが出来るのです。
神様は良い木です。
私たちが良い木に結びついていれば、良い実を結ぶことができるのです。
悪魔は悪い木です。
私たちが悪い木に結びついていれば、悪い実を結ぶのです。

イエス様は言いました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と。

神様の願いは、私たちがイエス・キリストにつながって、豊かな実を結ぶことです。
パウロは御霊の実として、九つの実を上げています。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と。

イエス・キリストというぶどうの木につながれば、愛の実を結びます。
喜びの実を結びます。平和の実を結びます。寛容の実を結びます。
親切、善意、誠実、柔和、節制という実を結ぶのです。

イエス様は言いました。
「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことはできないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない」(ヨハネ15:4)。

私たちは御霊の実を自分の力で生み出すことは出来ません。
イエス様とつながっていなければ実を結べません。

昔々、ある田舎に住んでいた人が町に買い物に行きました。
炎天下の中を歩いて来たので、喉がカラカラに渇きました。
彼は、ある家の門を叩き、「水を一杯くださいませんか」とお願いしました。
すると、「いいですよ。どうぞ、お入りください」と行って台所に通されました。
そこには水を汲み上げる井戸がなく、壁にピストルのようなものが付いていました。

実は、当時、水道が普及し始めたばかりで、田舎に住んでいた彼は、その蛇口を不思議そうに眺めていました。
奥さんがその蛇口をひねると水が出てきて、彼はその水を飲みました。
「これは何と便利なものだ」と思って、彼はおみやげにこの魔法の蛇口を買って帰りたいと思ったのです。

彼は、町で買い物をしているときに、その蛇口が置いてある店を発見しました。彼は、その蛇口をおみやげに買って家に帰ったのです。
そして、早速、見よう見まねで台所の壁に取り付けました。

彼は、奥さんや子どもたちを集め、みんな驚くなよ、と言って、蛇口をひねります。しかし、水は出なかったという笑い話です。

どんなに立派な蛇口を持っていても、蛇口だけでは決して水は出ません。
それは木から切り離された枝のようなものです。
枝が木に結びついてこそ実がなるように、蛇口はパイプと直結していなければ水が出ないのです。
もっと言えば、たとえパイプがあっても、そのパイプが水源地につながっていないと水は出ないのです。

たとえ枝が木につながっていても、もしその木が枯れていれば、実を結ぶことがないのです。

ここに引っ越ししてきた時、屋根の上にアンテナがあるのに、テレビが映りませんでした。
アンテナ線が悪いのかと思って、線を変えたりしたのですが、いくらチャンネル設定をしても、映りませんでした。
結局、一ヶ月間、テレビのない生活をしました。
後で分かったのですが、映らない原因はブースターでした。
私はアンテナ線さえあればテレビは映ると思い込んでいたのです。

みなさん。枝は木につながっていなければ実を結びません。
たとえ木につながっていても、木が枯れていれば実を結びません。

また、蛇口はパイプとつながっていなければ水がでません。
たとえパイプがつながっていても、水源地とつながっていなければ水がでないのです。

また、テレビはアンテナがなければ映りません。
たとえアンテナなとつながっていても、ブースターがなければ映らないのです。

私たち人間も同じです。
私たち人間は神様によって造られました。
神様は良い木です。
良い木につながってこそ、良い実を結ぶことが出来るのです。

イエス様はぶどうの木です。
私たちはその枝です。
私たちはぶどうの木であるイエス様につながり、そこから養分を受けなければ実を結ぶことは出来ません。
御言葉は、私たちの人生に実を結ぶために必要な養分です。

イエス様とつながっていても、御言葉を読まなかったら、実を結ぶための養分が流れてきません。
蛇口があっても、パイプがあっても、水源地から水が流れてこなければ意味がありません。

みなさん。毎日、御言葉を読むようにしましょう。
御言葉は、水源地から流れる水のようなものです。
ぶどうの木であるイエス様につながり、御言葉によって、命の水を受け、豊かな実を実らせていきましょう。

6:45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

ここに善い人と悪い人とが出てきます。
善い人は、心の倉に良い物を入れています。
一方、悪い人は、心の倉に悪いものを入れています。

イエス様は、人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と言いましたが、まさにそうです。

私たちの心の中にあるものが、口から出てきます。
私たちの心にあるものが人生を決めるとも言えます。

皆さん、私たちの心を支配するものが、私たちの人生を支配します。
「心」は、言うならば、人生の司令塔です。

司令塔が、破壊されたり、誤った決断をするならば、人生の戦いに勝利することができません。
私たちは人生の司令塔である「心」を守らなければならないのです。
「心」の中にあるものは、やがて表面化します。
「心」の中にあるものが、語る言葉や振る舞い、行動となって表れます。実によって木を知ることができるように、
言葉によって、心を知ることができるのです。
言葉や行動を通して、その人の心が見えてきます。

イエス様は「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出」すと言いました。
良いものをだすためには、良い物を心の倉に蓄えなければなりません。

箴言4章23節に「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」(箴言4:23)

心は命の根源です。
この水源地が汚染されると、言葉と行動とが汚染され、人生が破壊されていきます。
私たちは心の倉によいもので満たす必要があります。
良いものとはなんでしょうか。
良いものとは、御言葉です。

御言葉を心の倉に蓄える方法には五つあります。

第一は、聞くことです。
聞いたことは、24時間後には5%しか覚えていないそうです。
聞いたメッセージは、翌日にはほとんど忘れているのです。
ですから、聞くだけでは心の倉は満たされません。

第二に、必要なのは、読むことです。
読んだものは24時間後には15%ほど残っているそうです。
みなさん。QTと聖書通読を怠らないでください。
毎日、聖書を読みましょう。

第三は、学ぶことです。
学んだことは24時間後には35%ほど残っているそうです。
聞くだけではなく、読むだけではなく、御言葉を研究することも有益です。
例えば、今はインターネットを使えば、聖書の箇所を検索ワードにかければ、いろんな教会の先生方の説教を読むことができます。
御言葉を学ぶことによって、御言葉は心に蓄えられます。

第四は暗誦することです。
キッズチャペルの子どもたちは、毎週、御言葉を暗誦してきます。
ポイントが目当てという面もありますが、ポイントがたまる以上に、心に御言葉がたまっていきます。
みなさんも、週報に記されている御言葉を、毎日、暗誦して、覚えるようにしましょう。

最後、五番目は黙想することです。
御言葉を黙想することによって、生活に変化が起こります。
御言葉を思いめぐらす人は、流れのほとりに植えられた木のようです。
時が来れば、実を結び、その葉もしおれることがないのです。

みなさん。御言葉を心の倉に蓄える善い人になりましょう。
御言葉が心から溢れる人になりますように。
御名によって祝福します。
お祈り致します。

イザヤ11:1-16「その日が来れば」

◎4月27日(日)
●イザヤ11:1-16「その日が来れば」
●要約 (リビングライフより)
エッサイの根株から新芽が生え、その上に主の霊が臨みます。この方は主を恐れることを喜び、海を覆う水のように、主を知る知識が世を満たします。その日に主は残りの者を四方から呼び集められます。
●御言葉
その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。(11:10)

エッサイの根とは、救い主として生まれたイエス・キリストのことです。

「その日」には三つの意味があります。

一つは2000年前、キリストがこの世に来られた「その日」(過去)です。

二つ目は、キリストが再びこの世に来られる「その日」(未来)です。

三つ目は、キリストを信じた「その日」(現在)です。

その日とは、救い主が来られる日です。

主はいつも共にいる。

今日は日曜日です。

「その日」を信じ、待ち望み、感謝しつつ、礼拝を捧げましょう。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ10:24-34「解放される日」

◎4月26日(土)
●イザヤ10:24-34「解放される日」
●要約 (リビングライフより)
アッシリアが神の杖となりシオンを打ちますが、やがて神が高慢なアッシリアを打たれます。アッシリアがエルサレムに進軍するとき、彼らは生い茂るレバノンの山林が伐採されるように、万軍の主によって切り落とされるのです。

●御言葉
その日が来れば、あなたの肩から重荷は取り去られ、首に置かれた軛は砕かれる。(10:27)

神様はユダの民からアッシリアという重荷を取り去り、軛を砕くと約束されました。

イエス様も私たちに約束します。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイ11:28-29)。

誰でも主のもとに行くならば「その日」が訪れます。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ10:12-23「主の手に握られて」

◎4月25日(金)
●イザヤ10:12-23「主の手に握られて」
●要約 (リビングライフより)
アッシリアは自らの力と知恵によって多くの国々を征服したと誇りました。このように、主権者である神を覚えず、高ぶったアッシリアはさばかれます。その日に、イスラエルの残りの者は、神に堅く信頼し、立ち返ります。

●御言葉
斧がそれを振るう者に対して自分を誇り、のこぎりがそれを使う者に向かって高ぶることができるだろうか。(10:15)

斧やのこぎりは、大木をも切り倒す力がありますが、人の力がなければ木を切ることはできません。

人間は斧やのこぎりとは比較にならないほど力と可能性を秘めています。

その力も神に命を与えられなければ発揮できません。

生きている世界が神の偉大な力に支えられているからこそ、私たちは生きることも、力を発揮することもできるのです。

創造主である神こそが、まことに誇るべきお方です。

主の手に握られて、今日も力を発揮していきましょう。

祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ10:1-11「神の御手」

◎4月24日(木)
●イザヤ10:1-11「神の御手」
●要約 (リビングライフより)
不義のおきてを公布し、力なき弱い者の権利を略奪する者には怒りが臨みます。神はアッシリヤをさばきの道具とされ、不義を常とするイスラエルとユダを打たれました。しかいs、アッシリヤは神が定められた分を超えて高ぶります。

●御言葉
神を無視する国に向かって、わたしはそれを遣わし、わたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ、野の土のように彼を踏みにじれ」と。(10:6)

イスラエルが神を無視したために、神はアッシリアを鞭として、イスラエルを攻めさせます。

イザヤは歴史を導く神の存在を語ります。

すべてのことは、神にとって意味ある出来事です。

健やかなる時も、病めるときも、主の御手を発見し、神を無視することなく、神と共に歩む人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ9:7-20「愛の鞭」

◎4月23日(水)
●イザヤ9:7-20「愛の鞭」
●要約 (リビングライフより)
神が異邦の民を起こされ、北イスラエルを罰せられます。しかし、高ぶり、頑なな彼らは、自分たちを打たれた方に立ち返りません。遂に、神は悪によって汚れた全地を焼き尽くされ、北イスラエルとユダは互いに敵対します。

民は自分たちを打った方に立ち帰らず、万軍の主を求めようとしなかった。(9:12)

神様の鞭は愛の鞭です。

神様は民を滅ぼすためではなく、正しい道に引き戻すために鞭打たれました。

鞭を打たれると痛みがあります。

愛の鞭は、打たれた者より、打つ者の痛みの方が絶大なのです。

キリストの十字架は神の痛みです。

私たち受けるべき鞭を、キリストは身代わりに受け、私たちが主に立ち帰り、主を求め、救われることを願われています。

愛の鞭を体験し、主に立ち帰る人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ9:1-7「メシア預言」

◎4月22日(火)
●イザヤ9:1-7「メシア預言」
●要約 (リビングライフより)
苦しみ、蔑まれていた地に光が臨みます。国は栄え、民は喜びを味わいます。やがてひとりのみどりが生まれ、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。

●御言葉

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。(9:5)

イザヤは苦悩の中にある人々が、闇の中に光を見、深い喜びと大きな楽しみが与えられる時が来ることを預言します。

この預言はキリストの誕生によって実現しました。

イザヤは、まだ生まれていない救い主をすでに見ていたのです。

信仰とは、神の約束がすでに実現したと信じ、その時を待つことなのです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ8:16-22「主を待ち望む」

◎4月21日(月)
●イザヤ8:16-22「主を待ち望む」
●要約 (リビングライフより)
神はイザヤにご自分のみことばを封印するように言われます。イザヤは神だけを待ち望むと語ります。神とそのみことばを求めず、霊媒や口寄せを訪ねる人は艱難と暗闇と苦しみの中から抜け出すことができません。

●御言葉
わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。(8:17)

主はヤコブの家に御顔を隠されました。

御顔を隠すとは、顔を背けるということです。

神が顔を背けたくなるほど、ユダの人々の罪は深かったのです。

そんな状況にもイザヤは、主を待ち望み、主に希望を置きました。

どんな状況でも主を待ち望み、主に希望を置く人は幸いです。

主は再び御顔を向けられます。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

説教 「道案内する人、される人」

『道案内をする人、される人』
(ルカ6章39節-42節)
(2008年・4月20日・ベテル清水教会 聖日礼拝)

先週、神戸新聞の朝刊に載っている「ちびまる子ちゃん」の四コマ漫画にこんなのがありました。

永沢君という暗い性格の男の子がいます。
彼が言いました。「僕は神様なんっていない気がするんだ」。
すると、永沢君の友達で、同じく暗い性格の藤木君も「ぼくもだよ」と答えます。
すると、スポーツが得意で明るい性格の大野君と杉山君の二人が「俺はいると思うぜ」「おれもあるなぁ」と答えます。
すると、今度は、ネガティブな性格の子が「そんなのいないに決まっているじゃん」「見たことないしな」と答えます。

その後、永沢君はぽつりと言いいました。
「いると感じている人は運がいい人ばかりだね」
藤木くんも「そうだね」と暗く答えて終わるという四コマ漫画でした。

神様を信じて生きる人は運がいい。
確かにそういう傾向はあると思います。
神様の存在を否定して生きるよりは、肯定して生きる人のほうが幸せだと言えます。

なぜなら、私たち人間は神様によって、造られているのですから、本来、神様がいると信じて生きるほうが自然であり、健康的だからです。

コヘレトは、人の心には永遠を思う心が与えられている、と言いましたが、この永遠を思う心とは、神様を慕い求める心が備わっているということです。

聖アウグスチヌスは「私たちの心は、神の中に憩うまでは、安息を得られない」と言いました。
パスカルは、「人間の心の中には神の形をした空洞があり、それは神によってしか埋められない」と言いました。

神の中に憩うためには、心の空洞が埋められるためには、神の存在を認めると共に、その神を求めて、近づかなければなりません。

イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。
私たちは神が人となられたイエス様を通して、神様を知り、神様に近づき、安らぎを得ることができるのです。

さて、先週、「約束を伴う命令」と題して御言葉を学びました。
神様の命令には約束が伴います。
それは祝福の約束です。
「祝福」と「恵み」は違います。

恵みは、求めても求めなくても与えられます。
あるいはすでに与えられています。
神様は恵み深いお方であり、善人にも悪人にも恵みの雨を注がれるお方です。

クリスチャンとは、この神様の恵みに気づき、どんなことにも神様の恵みがあることを発見して、感謝して生きる人のことです。
一方的に与えられる世界。それが恵みの世界です。

それに対して、祝福とは、神様に従う者に与えられる世界です。
「そうすれば」というように、報いの世界、報酬の世界です。
神様の命令、掟である御言葉に従い、御心に従って生きる時に、「そうすれば」と言って与えられるもの、それが祝福だということを学んだのです。

さて、今日はその続きの箇所であります。
ルカ6章39節からご覧ください。
6:39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。

以前、韓国のオンヌリ教会に行ったときに、帰りに近くのバスターミナルから空港行きのバスに乗るために、教会の人に「仁川空港に行きたいのですが、私をバス乗り場まで連れて行ってください」と紙に書いてもらいました。

言葉が通じませんし、看板も読めませんので、この紙を頼りにバスターミナルに行きました。
そして、駐車場の誘導をしているおじさんに、この紙を見せました。
すると、その人は、あっちと言って指さすのではなく、一緒にずっと歩いてくださり、かなり離れた場所であったのですが、空港行きのバスの前まで連れて行ってくれました。

もし、私が道に迷っている時に、別の日本人の方が来て、「空港にはどうやっていけばいいですか」と聞かれて、「わたしも今から行くところです。私の後についてきてください」と言って、どこに行けばよいか知らないのに、この人を連れて行ったら大変なことになります。
道案内人は、道を知っていなければなりません。

イエス様は、道を知らないのに道案内をする人は、盲人が道案内をするようなものだ、と言ったのです。
これは、現代では、盲人に対する差別だという風に受けとめられることもあるのですが、もちろん、イエス様が差別して言われている分けはありません。

当時は、今のように、盲人が道路を歩けるように、点字ブロックがあるような時代ではありません。
盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも道に迷い、穴に落ちてしまう、といわれたのです。

さて、この盲人とは、一体誰のことを言っているのでしょうか。
マタイによる福音書15章を見ますと、そこに同じ言葉が出てきます。

ある時、ファリサイ派の人々と律法学者たちがイエス様のところにやってき、「なぜ、あなたの弟子たちは、先祖の言い伝えを守らず、手を洗わないで食事をするのか」とイエス様に質問したのです。

すると、イエス様は、逆に彼らに対し、どうして、あなたたちは先祖の言い伝えに固執し、神の掟をなおざりにしているのか、と言って、彼らの考えを批判しました。

この時、イエス様は「彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」と、弟子たちに言われたのです。つまり、盲人とはファリサイ派の人々のことです。

私は少し前、左目のコンタクトを無くしてしまいました。
今は、右目にしか入っていないのですが、実は、左目のコンタクトは、入れても入れなくても、余り大して変わりません。
左目の視力はコンタクトを入れても出ないからです。

左目は緑内障によって、中心部分の視野が失われているのですが、周辺部は見えるので、コンタクトがないと、ぼやーとして違和感があります。
最近では、この違和感にも慣れてきて、右側のコンタクトだけで生活ができるようになりました。
視野が失われていることの影響なのか、片目が見えない影響なのか、それとも単なるドジなのかわかりませんが、私は良く左肩をドアにぶつけたり、頭がぶつけることが多いんですね。
目が少し不自由なだけで、こうなのですから、もし、両目が見えなくなってしまったら、歩くのは大変です。
自分が歩くのもままならないのに、盲人の手引きなどできるはずがありません。

今日の説教のタイトルは「道案内をする人、される人」です。
盲人は道案内が必要な人であり、道案内をされる人です。
では、道案内をする人は誰でしょうか。
それは道を知っている人です。目が開かれている人です。

みなさん。盲人が盲人に道案内をされると二人とも穴に落ちます。
では、盲人はどうすれば穴に落ちずに歩けるでしょうか。
その方法には二つあります。

第一は、手引きをしてもらうことなのです。
自分が盲人であることを認め、手を引いてもらうことです。
もちろん、その場合、盲人の手引きでは意味がありません。
道が分かっている人、目が見える人の手に引かれることが大切です。
目の見える人に手引きされるならば、穴に落ちないのです。

みなさん。イエス様はファリサイ派の人々のことを「盲人」にたとえていますが、彼らだけが盲人ではありません。
人間はみんな生まれながらの盲人です。霊的盲人です。
弟子たちも、私たちも、みんな目が閉ざされ、暗闇の中にいたのです。

イエス様は言いました。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と。

私たちが穴に落ちない方法は、いつもイエス様の手引きを受けることです。
私たちの人生には落とし穴があります。
私たちの人生には暗闇が襲うことがあるのです。
しかし、主を信じる者は、イエス様が道案内人として、私たちの手を引いてくださるのです。
私たちの道に光を灯して、落とし穴の存在に気づかせてくださるのです。

みなさん。イエス様はみことばを通して、私たちの手を引かれます。
イエス様の手引きは、御言葉です。
御言葉は私たちの足のともしびであり、人生を照らす光なのです。
私たちが御言葉を守っていきるならば、御言葉が私たちの人生を守ります。
これは、先週お話しした祝福の世界であり、そうすればの約束です。

さて、みなさん。弟子たちとファリサイ派の人々は、盲人という点では同じ存在です。
しかし、彼らは自分たちの導き手が異なりました。

ファリサイ派の人々は、イエス様の導きに従うのではなく、先祖の言い伝えを手引きとしました。
それはまさに盲人が盲人の手引きを受けるような行為でした。
その結果、彼らは躓きの穴に落ちてしまったのです。

私たちはここから教えられることがあります。
私たちの人生には落とし穴があります。
私たちは盲人であり、私たちが落とし穴に落ちないように、滅びの穴に落ちないように、イエス様が手引きしてくださるということです。
私たちはこのお方から、決して目を離してはならないのです。

韓国で道案内をしてくださった方は、スタスタと歩いて行きました。
私たちはこの方を見失わないように付いていき、目的のバス乗り場に着くことが出来ました。
私たちも主から目を離さずに、主の手に引かれてついていくならば、たとえ私たちが道を知らなくても、心配することはないのです。
主が目的地までしっかりと導いてくださるからです。

聖歌651番
主が私の手を取ってくださいます。
どうして怖がったり、逃げたりするでしょう。
優しい主の手にすべてを任せて 旅ができるとはなんたる恵みでしょう。

私たちの人生は旅です。私たちは自分の人生の先がどうなっているのか分かりません。見えません。思わぬ落とし穴もあります。
しかし、主は見ておられます。主は知っておられます。
主は守ってくださいます。この主を信頼して、主の後に従っていきましょう。
6:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
6:41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」


私たちは盲人であり、イエス様は道案内人です。
盲人が穴に落ちない方法は、手引きを受けることでした。
私たちが道に迷わない方法は、イエス様の言葉に従って歩むことです。

盲人が穴に落ちない方法の二つ目は、見えるようになることです。
これは神様の業です。
自分で見えるようになることはできません。
神様が目を開いて見えるようにしてくださるのです。

私たちは盲人であり、イエス様は私たちの目を開いてくださるお方です。
イエス様は私たちの手を引いてくださるお方でありますが、
私たちの目を開いてくださるお方でもあります。

イエス様は弟子たちが目が開かれて、イエス様のように、道案内をする人になることを願っておられるのです。

本来、宗教家である律法学者やファリサイ派の人々らは、民衆の手引きとなるべき存在でした。
しかし、彼らの目はふさがれていました。
そのために盲人が盲人を手引きするような事態になったのです。

彼らは自分の目に丸太があるのに、兄弟の目のおが屑を取ろうとしていました。
これも盲人が道案内するのと同じです。

イエス様は、兄弟の目からおが屑を取ることがダメだといっているのではありません。
その前に、まず自分の目から丸太を除きなさい、といわれたのです。

パウロは、このファリサイ派の代表的な人物でした。
彼は、イエス様と出会って、まさに目から丸太ならぬ鱗のようなものが落ちて、目が開かれたのです。

使徒言行録26章12節以下で、パウロは自分の回心をアグリッパ王に証ししています。
26:12 「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、
26:13 その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。
26:14 私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。
26:15 私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。
26:17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。
26:18 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」


パウロはイエス様に出会うまでは、盲人の道案内人でした。
彼は自分の目の中に丸太があるのに、気づいていませんでした。
彼は自分は正しいと思って、クリスチャンを迫害したのです。兄弟の目からおが屑を取ろうと必死だったのです。

彼は愛がないから、迫害していたのではありません。
彼ほど同胞を愛する人はいません。
愛するが故に、兄弟のおが屑を取ってあげたいと必死だったのです。
自分がしていることは正しいと思っていたのです。
しかし、彼はイエス様と出会って、目から鱗のようなものが落ちました。
彼は、目から丸太が取り去られる経験を通して、イエス様の働きを担う者へと変えられたのです。

パウロの使命は、福音を伝え、人々の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせることでした。

彼は、ダマスコ途上で目が見えなくなります。
そして、彼は手を引かれながらダマスコに行って、そこでアナニアに手を置いて祈ってもらった時に、目から鱗のようなものが落ちて、再び見えるようになったのです。
彼は、道案内される人から、道案内する人に変えられたのです。

神様の願いは、私たちが御言葉によって導かれ、目が開かれ、道案内する人に変えられることなのです。

神様は、私たちの目から丸太を取り除き、私たちの目をはっきり見えるようにしてくださるお方です。
私自身も、この教会を導く牧師として、もう一度、自分の目にある丸太が取り除かれるように祈っていきます。
主に手を引いて頂き、主に目を開いていただき、共に、イエス様のように、パウロのように、道案内をする者になっていきましょう。
お祈り致します。


イザヤ8:1-15「主を礼拝する」

◎4月20日(日)
●イザヤ8:1-15「主を礼拝する」
●要約 (リビングライフより)
神はイザヤから生まれた男の子の名前を「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」とつけられます。これはやがてアラムと北イスラエルが、アッシリアに占領されることを表します。神はご自分に頼る者は守られますが、背く者は倒されます。

●御言葉
万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。(8:13)

まことの神様は唯一であり、絶対者です。

すべてを支配したもうお方であり、私たちが礼拝を捧げるべきお方です。

世界はこのお方によって造られ、守られ、導かれています。

今日は日曜日です。

この日は他の日と聖別され、聖なるお方を礼拝する日です。

主を礼拝し、主に守られて生きる人々は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ7:10-25「インマヌエル」

◎4月19日(土)
●イザヤ7:10-25「インマヌエル」
●要約 (リビングライフより)
神はダビデの家に一つのしるしをくださいました。すなわち、処女がみごもり、男の子を産み、「インマヌエル」と名付けられるのです。ユダはアッシリアによって悲惨な災いに遭い、全地はいばらとおどろに覆われます。

●御言葉
それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(7:14)

窮地に立たされたアハズ王に対し、預言者イザヤは主に助けを求めるように言いますが、彼は「わたしは求めない」と言って、自分の力のみで対処していきます。

イエス・キリストは救いのしるしです。

このお方を信頼する人は、神が共におられ(インマヌエル)、救いを体験します。

主と共に問題に向き合い、戦う人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ7:1-9「恐れることはない」

◎4月18日(金)
●イザヤ7:1-9「恐れることはない」
●要約 (リビングライフより)
ユダの王アハズの時にアラムの王レツィンとイスラエルの王ペカがエルサレムを攻めてきます。イザヤはアハズ王を訪ね、彼らを恐れるなという神のみことばを伝えます。神がユダを守られるため、彼らの企みは現実とはなりません。

●御言葉
彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。(7:4)

ユダの王アハズは連合軍の攻撃を受け、ピンチに陥りました。

彼は動揺します。

ピンチの時、まず心を落ち着け、冷静になって、主を信頼することが大切です。

アハズは、この警告を無視し、主に頼るのではなく、アッシリアに貢ぎ物を贈り、助けを求めます。

その結果、ユダはアッシリアの属国となり、霊的影響を受け、やがて衰退の道を歩むことになるのです。

ピンチの時、静まって、主に信頼する人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ6:1-13「罪の赦し」

◎4月17日(木)
●イザヤ6:1-13「罪の赦し」
●要約 (リビングライフより)
イザヤは高き御座におられる主を見ました。人々は聖なる主の栄光を讃美し、主はイザヤに使命をくださいました。主の怒りによってユダは荒廃し、多くの民がいなくなりますが、聖なる子孫は残り、その地の切り株となります。

●御言葉
彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(6:7)

イザヤの口に触れた火は、イエス様の十字架の血潮を象徴します。

イエス様を救い主として信じ、従うならあ、イエス様が流された血潮によって、私たちの過去、現在、さらに未来の罪までも清められます。

あなたの心に消し去ることの出来ない、忘れることの出来ない罪はありませんか。

主に触れ、すべての罪が赦されて生きる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ5:24-30「御言葉と共に生きる」

◎4月16日(水)
●イザヤ5:24-30「御言葉と共に生きる」
●要約 (リビングライフより)
神の律法を捨て去り、そのみことばを侮る者は枯れ草が燃えるかのようにたちまち滅んでしまいます。神は、非常に強暴で、その軍隊の叫び声は若獅子が吠えたけるかのように、はるかかなたの国を怒りの道具として召されます。

●御言葉
それゆえ、火が舌のようにわらをなめ尽くし、炎が枯れ草を焼き尽くすように、彼らの根は腐り、花は塵のように舞い上がる。彼らが万軍の主の教えを拒み、イスラエルの聖なる方の言葉を侮ったからだ。(5:24)

幹から切り離された枝、水が断たれた草花は枯れていきます。

神様から離れて生きる人は、切り花のようです。

どんなに綺麗な花束でも、実を結び、種を残し、再び花を咲かせることはできません。

神様と共に生きる人は、流れのほとりに植えられた木のようです。

時が来れば実を結びます。

御言葉と共に生きる人にはたとえ枯れたような木に見えても希望があります。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ5:8-23「祝福は上り坂」

◎4月15日(火)
●イザヤ5:8-23「祝福は上り坂」
●要約 (リビングライフより)
家と土地をどれだけ多く買っても、神を覚えなければ貧しくなるだけです。公正で聖なる神は、善悪を見分けられず、暗やみの中にとどまり、自ら知恵があると思い、酒を求めている人々に怒りを下されます。

●御言葉
災いだ、朝早くから濃い酒をあおり、夜更けまで酒に身を焼かれる者は。(5:11)

神様は堕落したユダの民に対し、六つの災いを告げます。

貪欲、酒乱、偶像礼拝、不正、高慢などが災いを引き起こしたのです。

私たちの前にはいつも「祝福」と「災い」の分岐点があります。

災いは下り坂、祝福は上り坂です。

上り坂にはエネルギーが必要です。

今日も主から力を受けて、主と共に祝福の山を目指して歩みましょう。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ5:1-7「良い実を結ぶ」

◎4月14日(月)
●イザヤ5:1-7「良い実を結ぶ」
●要約 (リビングライフより)
神が愛されるぶどう畑のための歌です。良いぶどうの木を植え、手入れをし、良いぶどうになるのを待っていましたが、酔いぶどうができてしまいます。イスラエルも神の期待にそぐわない罪悪の実を結んだのです。

●御言葉
よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。(5:2)

神様は私たちに人生という畑を用意し、良いぶどうを実らせて生きることを願っておられます。

どうすれば良い実を結べるのでしょうか。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)。

主に結ばれて、今日も良い実を結ぶ一日となりますように。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

説教 「約束を伴う命令」

『約束を伴う命令』
(ルカ6章37節-38節)
(2008年・4月13日・ベテル清水教会 聖日礼拝)


ある女性が、空港のロビーに座って飛行機の出発を待っていました。
本を読みながら、お腹が空いたので、隣の席に置いてあるクッキーを開けて食べ始めました。
ふと気がつくと、一つ離れた椅子に座っている男性が、彼女が食べているクッキーの箱に手を伸ばして食べ始めたのです。
人が買ったクッキーを勝手に食べるなんて、何という男だろう、と思いながらも、彼女は無視して、クッキーを食べ続けます。

すると、この男性も食べ続けて、いよいよ最後の一枚になりました。
彼女が取ろうとすると、彼が先に取って、ニコッと笑ってクッキーを二つに割り、「どうぞ」と言って渡したのです。
なんて奴だ。まるで自分のものであるかのようにして、と思いつつ、彼女はそのクッキーをひったくるようにしてとって、食べました。

まもなくして、出発のアナウンスが流れました。
彼女は反対側に置いてあったバックに本を入れようとしたところ、唖然としました。
何とカバンの中に、彼女が買ったクッキーがそのままあったのです。

彼女はカバンの中にクッキーを見つけるまでは、自分は正しいと思って、彼を裁いていました。しかし、自分のクッキーを見つけた彼女は、一瞬にして、自分の判断が間違っていたことに気づいたのです。

私たちの人生にも同じようなことがないでしょうか。
ある事実に気づくことによって、目から鱗が落ちたかのように、考え方が180度変わるという経験です。

パウロという人は、かつてキリスト教の迫害者でした。
彼は、自分のしている行動は間違っていない。神様も喜ばれることだと確信して、キリスト教徒たちを捕まえて、牢獄に放り込んだのです。
しかし、彼は、ある時、神の声を聞きます。
彼は、イエス・キリストが神であることを知って目から鱗が落ちたのです。
それから彼の人生は180度変わり、キリスト教の宣教者となったのです。

彼女は自分のクッキーを見つけるまでは、隣の男性がとんでもない奴だと思っていました。
彼女はまさか自分の方がとんでもないことをしているとは思っても見なかったのです。
しかし、クッキーを発見することによって、自分の過ちに気づきます。
そして、腹立たしく思っていた男性が、何と寛容で優しい人なんだろう、という評価に変わるのです。

聖書という書物は、不思議な書物でありまして、私たちの目から鱗を落とし、今まで見えなかった世界、気づかなかった世界を見せてくれる書物なのです。

私たちは聖書を通して、自分の視点、人間の観点から物事を見るのではなく、神様の視点から、神の観点から人生や出来事を見ることができるようになるのです。

今朝も、聖書を通して、共に御言葉を学んでいきましょう。
今朝は、久しぶりにルカによる福音書の学びに戻ります。
もう一度、6章37節以下をご覧ください。
6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」


今日は少し耳の痛い言葉です。
ここに四つの言葉が命令形で語られています。
人を裁くな。人を罪人だと決めるな。赦しなさい。与えなさい。

自然界には法則があるように、人間関係にも法則があります。
裁く人は裁かれ、レッテルを貼る人はレッテルを貼られ、赦す人は赦され、与える人は与えられるという法則があります。

これは絶対的な法則ではありませんので、むしろ傾向と言った方が正しいかもしれません。
裁く人は裁かれる傾向にあり、レッテルを貼る人はレッテルを貼られる傾向にあり、赦す人は赦される傾向にあり、与える人は与えられる傾向にあります。

天に唾を履けば、自分にかかるように、私たちから出るものが私たちに戻ってくるという傾向があります。
ですから、私たちはよいものを受けたければ、良いものを流し出す努力が必要です。
さて、今日の箇所を読みながら、注目したい言葉は、これらの命令の後に、「そうすれば」という言葉があることです。

今日の説教テーマは「約束を伴う命令」です。
「そうすれば」というのは、「そうすればこうなる」という神様の約束です。
神様の言うとおり、命じられたことを守るならば、神様の約束が伴ってくるのです。

イエス様は弟子たちに「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と言いました。
これらのものとは、私たちに必要なものです。

私たちの必要は、私たちが神様を第一にしていけば、添えて与えられると言われているのです。
これも約束を伴う命令です。
神様のことを第一にして歩みなさい。そうすれば、神様は、あなた方に必要なものを添えてくださる、という約束なのです。

私の家は、父親がいなかったので、母が四人の子供を女手一つで育ててくれました。
母の後ろ姿から教えられたことは、神様を信じ、神様に従っていけば、神様がすべての必要を満たしてくれるということでした。

私たち家族の人生を振り返るとき、本当に神様が必要なものを添えて与えてくださったという実感があります。
神様の命令には約束が伴うのです。
今日は、このことを心に留めたいのです。

神様の言葉に従う者は、神の約束を受け取ります。
その約束とは、私たちにとって祝福をもたらす約束です。
神様の言われたことを守って生きるならば、私たちの人生は祝福されたものとなるのです。

パウロは言いました。
「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。

ここにも「そうすれば」があります。
両親を敬う。これは神様の命令です。
この命令に従うならば、私たちは幸福になり、地上で長く生きることができる、という約束です。

みなさん。私たちが神様の命令に従う時、神様の約束が伴います。
パウロは、父と母を敬うことが、この約束を伴う最初の掟だと言いました。
「最初」というのですから、二番目も、三番目もあるのです。
実際、聖書の中には、祝福を伴う命令が満ちています。
聖書は、神の命令の宝庫であり、約束の宝庫であり、祝福の宝庫なのです。

今年の元旦礼拝に与えられた御言葉は「求めなさい。そうすれば与えられる」という言葉です。
ここにも「そうすれば」が出てきます。

求めなさい。そうすれば与えられる、とありますが、
みなさんは求めていなかったのに、与えられたという経験はないですか。

求め続けることによって与えられることもありますが、求めていないのに与えられる場合もあります。

ある人は思うかもしれません。
結局、祈っても祈らなくても同じではないか。
求めても求めなくても同じではないか。
そんな風に思うことがあるかもしれません。
しかし、決してそうではありません。

確かに、求めなくても神様が与えてくださることがあります。
それは神の恵みです。
イエス様が「求めなさい。そうすれば与えられる」というのは、恵みが与えられるのではなく、祝福が与えられるということです。
祝福とは、求めて与えられるものです。
恵みは、求めなくても与えられるものです。

みなさん。「恵み」と「祝福」は違うのです。
恵みには、「そうすれば」という約束や条件がありません。
無条件で与えられるから恵みなのです。
条件があれば、それは報酬です。
祝福とは、いうならば報酬のようなものです。
神様に従う者に対する報酬、報いが祝福なのです。
世の人々は、神の恵みを受けても、恵みに気づきません。
生きていることも偶然と考え、神に生かされているとは思いません。
この世界が神様によって造られたこと、支えられていることを知りませんから、恵みの中で今を生きていることを知らないのです。

しかし、私たちは聖書を通して、恵みの世界を知りました。
私たちが生きているのも、神の恵みであり、私たちに与えられている体もまた、神の恵みによって与えられたものであることを知るのです。

この恵みの世界は、私たちが求めたから与えられたのではなく、神様が私たちを愛しているから与えられたものです。

クリスマスの出来事もそうです。これも神の恵みです。
イエス様の十字架の出来事もそうです。これも神の恵みです。
この恵みの世界は、クリスチャンであろうとなかろうと、全ての人を愛する神の恵みによって与えられるものです。

神様は、全ての人を愛し、すべての人が救われることを願っています。
神様は、ご自分の命令に従う人だけを救うために、イエス様を遣わされたのではありません。
神様は、ご自分の命令に従わない人をも救うために、イエス様を遣わされたのです。
神様は、ご自分の命令に従う人だけを救うために、イエス様を十字架にかけられたのではありません。
神様は、ご自分の命令に従わない人をも救うために、イエス様を十字架にかけられたのです。
これが恵みの世界です。

そして、神様は恵みの世界を私たちに用意するだけではなく、祝福の世界をも用意してくださいました。
祝福の世界とは、神様の言うとおりに従って生きる人が体験する世界です。
「そうすれば」という約束が伴う世界です。
今日の四つの命令には、約束が伴うのです。
どんな約束でしょうか。
6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。

この「裁くな」というのは、「判断するな」という意味があります。
私たちが人を裁くときには、いつも自分の判断を絶対化している場合があります。思い込み、先入観によって、裁いてしまうのです。
先ほどの女性は、隣の席に置いていたクッキーは自分のクッキーだと思い込んでいました。
ですから、勝手に自分のクッキーを食べている彼を許せず、イライラしたのです。
しかし、彼女は、自分のクッキーを発見することによって、自分の判断が間違っていたことに気づきました。

当時、ファリサイ派の人々は、罪人や遊女たちにレッテルを貼り、裁いていました。
やがて、彼らは、イエス様をも裁き、十字架につけるようになります。
彼らは、自分の中にある罪に気づくまでは、自分たちの間違いに気づかないのです。
聖書は、私たちの心の鏡です。
私たちは、人の目にあるおがくずを発見しますが、その前に、自分の目にある丸太を取り除くことが先決なのです。

ある時、一人の男性がバスに乗っていました。
バスは満員状態でした。
そこに一人のおばあちゃんが乗り込んできました。
立っているおばあちゃんの前で、一人の若い男性が座ったままでいました。
それを少し離れたところで見ていた彼は「変わってやれよ」とイライラしました。
彼も座席に座っていたのですが、自分よりも、目の前にいる若者が席を譲るべきだと思っていたのです。
仕方がない、俺が代わるかと思って、立ち上がろうとしたときに、この若者の隣に座っていた母親らしき女性が、立ち上がって、おばあちゃんに席を譲ったのです。
彼は、この若者を見て、親より自分が譲れよ、と更にイライラしました。

しばらくして、バスが停車したときに、この母親らしき女性がこの若者の手を取って、支えながらバスを降りていったのです。
なんと、この若者は、体に障害を抱えていたのです。
彼は、そのことを知って、自分を恥ずかしく思いました。
私たちはいかに、自分の判断で人を見ることが多いでしょうか。

イエス様は、人を裁くな、人を罪人だと決めるな、と言いましたが、それは自分の判断や思い込みで、決めつけてはいけない、ということです。もし、私たちがそうすれば、やがて私たちも裁かれ、罪人だと決められるというのです。
これは霊的な原則なのです。

みなさん。人を裁くことができるのは、神様だけです。
私たちは神様の座る裁判席を奪ってはならないのです。
しかし、イエス様はどうでしょう。
イエス様は、裁判席に座るべきお方でありましたが、
この地上に来られた時に、どこに座ったでしょうか。
裁判席ではなく、弁護席に座って、罪人たちを弁護されたのです。

私たちはこのイエス様の姿から学ぶべきなのです。
イエス様は言いました。
赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。

みなさん。赦すことは簡単ではありません。
しかし、イエス様は赦しなさいというのです。
そうすれば、あなたがたも赦されるというのです。

カトリックの作家に曽野綾子さんという方がおられます。
その曽野綾子さんが「悲しくて明るい場所」という書物の中で、彼女のお父さんについて、こんなことを書いておられます。

「私の記憶にある父は、少し自分の気に入らないことがあると、すぐに母をいじめていた。ささいなことを少しも許さなかった」

お母さんが何時までに帰りますと言った時間に30分でも遅れたり、ボタンをひとつつけ忘れても、許さなかったのそうです。
気に入らないと暴力を振るうし、着物は破られ、食卓をひっくり返すこともたびたびだったそうです。
まるで寺内貫太郎一家の世界ですね。

あまりにもひどい状態に、曽野綾子さんは、
「私は何度か父を瞬間的に殺そうと思ったことがある。母を救うためであった」とまで思ったそうです。

そして、終りのほうで、こう言っています。
「改めて言っておきたいのだが、父は決して、不道徳な人ではなかった。
盗んだり、義理を欠いたりすることもなかった。酒飲みでもなく、賭博もせず、女癖さえも悪くなかった。それどころか、律義で機嫌のいい時は、実に気さくに見える人であった。ただ、父は人を許すことだけができなかった。
赦すことは簡単ではありませんが、神様にはできないことはありません。
神様の力を借りて、赦す者になりましょう。

6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

与える人は、与えられる人になります。
与える人には、神様が、押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、懐に入れてもらえる、というのです。

与えることは、祝福の法則です。
聖書には「受けるよりは与えるほうが幸なり」とあります。
私たちが与える人になれば、神様は私たちの懐を豊かにしてくれるのです。

みなさん。神様の命令には約束が伴います。
もし、みなさんが誰かに与えたならば、神様の祝福は、与えた人から与え返されるのではなく、思いがけない人を通して与えてくださると言うことがあるのです。

私は神様は損失補填の神だと信じています。
私たちが与えて損をすることはありません。
もし、損をするようなことあっても、神様はその損失を補填し、豊かに満たしてくださるお方なのです。

祝福してくださる神様を信じましょう。
裁くのではなく、赦し、与える人になりましょう。
そうすれば、みなさんの人生の上に、豊かな祝福が報酬として与えられるのです。

神の恵みと神の祝福に与る人生を共に過ごしていきましょう。
お祈りの致します。


イザヤ4:1-6「命を得る者」

◎4月13日(金)
●イザヤ4:1-6「命を得る者」
●要約 (リビングライフより)
その日には主の若枝は麗しく、栄光に輝きます。また、エルサレムに残っているすべての人々を「聖」と呼ぶようになります。神はエルサレムを聖められ、昼には雲、夜は煙と燃える火によって守ってくださいます。

●御言葉
そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記される。(4:3)

外国に行くのにパスポートが必要なように、天国にもパスポートが必要です。

イエス様は弟子たちに「あなたがたの名が天に記されていることを喜べ」と言いました。

私たちはイエス様を信じる事によって、残りの者となり、聖なる者とされました。

エルサレムとは天国の象徴です。

天に命を得る者として、名前が書き記され、パスポートを持って生きる人は幸いです。

今日は日曜日です。共に主を礼拝しましょう。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ3:16-26「本当の美しさ」

◎4月12日(土)
●イザヤ3:16-26「本当の美しさ」
●要約 (リビングライフより)
神はエルサレムの女たちの高ぶりと贅沢な振る舞いを責められます。その日になれば、神は女たちが身につけている装飾品を除かれます。神の怒りによってシオンは荒れ果て、贅沢に振る舞っていた女たちは悲しみ嘆きます。

●御言葉
その日には、主は飾られた美しさを奪われる。(3:18)

飾られた美しさはいつか消えていきます。

本当の美しさとは、外見ではなく、内面の美しさです。

内面の美しさは、装飾品によってではなく、人格が磨かれることによって身に付きます。

聖書は心の研磨剤です。

神様は御言葉や試練を通し、私たちの人格を磨かれます。

主の前に謙遜に生きる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ3:1-15「人生の支え」

◎4月11日(金)
●イザヤ3:1-15「人生の支え」
●要約 (リビングライフより)
神はユダヤの民が頼るものをすべて除かれ、彼らを滅ぼされます。その理由は彼らのことばと行いが神の威光に逆らったからです。神は民を虐げ、貧しい者から略奪を行っている者を責められます。

●御言葉
見よ、主なる万軍の神は、支えとなり、頼みとなる者を、また、パンによる支え、水による支えをも、エルサレムとユダから取り去られる。(3:1)

イスラエルの民は、自分たちが支えとしていたあらゆるものを失うことを通して、真に自分たちを支えている存在が誰であるかに気づきます。

私たちの命と人生を支えるあらゆるものや人や環境もすべて神様が私たちを支えるために置いてくださっているのであり、人は神様の支えなしには生きられないのです。

この神様にいつも信頼して、歩む者は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ2:12-22「誰に頼るのか」

◎4月10日(木)
●イザヤ2:12-22「誰に頼るのか」
●要約 (リビングライフより)
おわりの日に、神は高ぶった者をすべて低くされ、ただひとり栄光を受けられます。偶像を拝む者は、自分たちが造った偶像を獣に投げ込み、地をとどろかす威厳と燦爛たる栄光を避け、隠れてしまいます。

●御言葉
人間に頼るのはやめよ。鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。(2:22)

イスラエルの民は、創造主であり、人を生かしうる命の源である神を見失い、命のない偶像の神々や、神によって命を与えられた人間に頼ろうとしました。

あなたにとって、一番頼りになる存在は誰ですか。

死に勝利し、死の向こう側の世界にまでご一緒してくださるお方こそ、私たちが真に頼るべきお方です。

主により頼んで生きる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ2:1-11「道を示される方」

◎4月9日(水)
●イザヤ2:1-11「道を示される方」
●要約 (リビングライフより)
終わりの日に、神の神殿のある山へとすべての民が波のように押し寄せます。神は民の間で裁かれ、多くの民の争いと葛藤を解決されます。その日に、おごり高ぶる者は低くされ、神お一人だけが高められます。

●御言葉
多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。(1:27)

教会は主の山であり、神の家です。

この中で主の教えと御言葉が語られ、道が示されます。

御言葉は人生のナビゲータです。

御言葉の光に導かれて歩む人は幸いです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)。

主の祝福がありますように。byバルナバ

イザヤ1:21-31「恵みの御業」

◎4月8日(火)
●イザヤ1:21-31「恵みの御業」
●要約 (リビングライフより)
真実で忠実な都は不義と殺人がはびこる場所となりました。民の指導者さえも腐敗し、正義を行いません。しかし、神はイスラエルの不純物を取り除き、知恵ある指導者を立てられます。シオンは義と真実の町に回復されます。

●御言葉
シオンは裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。(1:27)

キリストの十字架は神の裁きの象徴です。

罪ある人間が受けるべき神の裁きを、イエス・キリストは身代わりに受け、罪の贖いをなしてくださり、救いの道を用意してくださいました。

これが福音です。

罪を悔い改め、神に立ち帰る者には、十字架は裁きではなく、恵みの御業となるのです。

今日も祝福を祈ります。byバルナバ

イザヤ1:10-20「雪のように白く」

◎4月7日(月)
●イザヤ1:10-20「雪のように白く」
●要約 (リビングライフより)
イスラエルは神に多くのささげ物を捧げました。しかし、その手は悪を行う手であったため、それらは神にとって忌み嫌われる、むなしいものに過ぎませんでした。神はイスラエルが悪を捨て、喜んで従うことを願われます。

●御言葉
論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。(1:18)

イエス・キリストは、あなたのすべての罪を赦し、清めるために十字架で血を流されました。

十字架にかかられたキリストを、救い主と信じ、受け入れる人は誰でも、この恵みに与り、真っ赤に染まった罪の心が真っ白にされ、赦しと回復が与えられるのです。

神に罪と咎を赦されて生きる人は幸いです。

今日も祝福がありますように。

今日も祝福を祈ります。byバルナバ

説教 「喜び、祈り、感謝せよ」

『喜び、祈り、感謝せよ』
(一テサロニケ5章16節-18節)
(2008年・4月6日・ベテル清水教会 聖日礼拝)

神戸新聞の朝刊にちびまる子ちゃんの四コマ漫画が掲載されていますが、昨日は、こんなやりとりが載っていました。

まる子ちゃんがお父さんに言いました。
「おとうさん、地球は何で丸いの?」
するとお父さんは「えっ」となります。
そして、こう言いました。
「それはなぁ、長い年月経つと、何でもみんな丸くなるんだ。人間も地球もな。カドがとれて丸くなるのさ」。
すると、まる子ちゃんは「へ~。そうなんだ」と感心し、お父さんは「そうそう」と得意げな顔をして、終わるという話です。

このお父さんの答えは、知識としてはデタラメでありますが、とても知恵深い答えであり、うまい答えだな、とうならされます。

ある学校の先生が子供に聞きました。
雪が解けると、どうなりますか?
するとある子供は「春になる」と答えました。
これもまた、知恵深い答えですね。

ソロモン王は、神様に知恵を求めましたが、私たちも神の知恵である御言葉を通し、単なる知識ではなく、人生の知恵を学んでいきましょう。

さて、今日から新しい年度が始まりました。
今年の元旦礼拝では「求めなさい。そうすれば与えられるであろう」という御言葉が与えられました。
ヤベツが「わたしを大いに祝福してください」と祈ったように、神様の祝福を求め、神様の祝福を実感する年となるようにと願っています。

一年の終わりに、神様はわたしを祝福してくださったと、実感し、新しい年を迎えたいという願いがあります。
そして、この祝福を毎年体験し、私たちの生涯の終わりには、本当に神様は私の人生を祝福してくださったと、実感し、感謝して、人生を終える者でありたいと願っています。

ヤベツは、主に従い、謙遜に生きた人でした。
ですから、人々から尊敬を受け、愛された人でした。
彼の人生は、彼の祈りの如くに、大いに祝福されました。

神様の祝福を受ける秘訣は、主の御心に従って生きることです。
主の御心に適う者に、神の祝福が注がれる。
謙遜な者に、神様の祝福は注がれる。
これは聖書が教える霊的な原則です。

みなさん。私たちに対する神様の御心は何でしょうか。
神様は私たちに何を願われているのでしょうか。
神様は、私たちに対して、私たちが三つの愛に生きることを願っています。
神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛して生きることを願っておられます。
互いに愛し合って生きることを願っています。
これが神様の御心であり、すべての人に対する神様の願いです。

さらに、神様は私たちクリスチャンに対して願いを持っています。
それは、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きることです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
この御言葉が今年の年間聖句です。
もう一度、みなさんでご一緒に、今日の聖書の御言葉を声を出して、読んでみましょう。

5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。


クリスチャンであれば、この御言葉を知らない人はいないでしょう。
みなさんの聖書には、アンダーラインが引かれているでしょうか。
しっかりと線を引いて、暗誦し、いつも口ずさむようにしましょう。

パウロは、いつも喜ぶこと。絶えず祈ること。どんなことにも感謝すること。この三つこそが、キリスト・イエスにおいて、神様が私たちに望んでおられることだ、といいました。

神様の御心は、私たちがいつも喜んで生きることです。
神様の御心は、私たちが絶えず祈って生活することです。
神様の御心は、私たちがどんなときにも感謝して生きることです。

私たちが、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きるならば、神様は天の窓を開き、溢れるばかりの恵みと祝福を注いでくださるのです。
プロ野球が開幕しましたが、昨年、巨人は、信じられないほどの大補強をしました。
ヤクルトからエースピッチャーと四番打者を獲得しました。
また横浜からはリリーフエースも獲得しました。
その前の年には、日ハムから首位打者を、その前の年にはロッテから四番打者を獲得しました。
打順の名前を見ただけでも、凄い打線のチームです。

しかし、ふたを開けてみると、昨年最下位で、なおかつ二枚看板を引き抜かれたヤクルトが、巨人にリベンジし、開幕ダッシュどころか開幕5連敗を喫し、開幕ダッシュに失敗しました。

どんな良いバッターであっても、スランプになることがあります。
過去にどんなに良い成績を残したバッターであっても、スランプに陥ると、打てなくなります。
野球はタイミングやバランス、フォームが崩れると打てません。

また、どんなに良いピッチャーでも、腕が触れない、フォームが崩れると、打たれてしまいますし、肘や肩を故障すると、もう投げるすらもできなくなります。

野球選手にとって、体は資本でありますから、春のキャンプで肉体を鍛え、しっかりと打撃フォームやピッチングフォームを固めて、準備ができた選手は、活躍していきます。

スランプに陥った選手たちは、好調時の自分のバッティングホームやピッチングホームをビデオでチェックし、基本練習を繰り返します。

私たちクリスチャンも同じです。
どんなに恵まれた信仰生活をしていても、どんな賜物が豊かにあっても、スランプになる時があるのです。
そんなときには、もう一度、基本フォームを見直し、修正し、リハビリする必要があります。

クリスチャンの基本フォームは何でしょうか。
それは、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することです。
この基本フォームを身につけて、人生を歩むときに、神様の祝福が注がれ、祝福されていると実感して生きることができるのです。

今朝は、この御言葉から「祝福の三原則」について学びます。
祝福の三原則。その第一は「いつも喜ぶこと」です。
5:16 いつも喜んでいなさい。

いつも喜んでいる人の周りには、人が集まります。
喜ぶ人は人からも喜ばれる人になります。

キッズやホームチャペルで歌う讃美に「光の子」という曲があります。
「喜ばれる人になろう。イエス様のような人に」という讃美です。

イエス様は喜ばれる人でした。
イエス様の内側にはいつも喜びがあったからです。
パウロは喜ばれる人でした。
パウロの内側にはいつも喜びがあったからです。
パウロは牢獄の中にあっても喜びました。
すると、牢獄の中にいる人たちも喜んだのです。
ダビデは、苦しみの中にあっても喜びと讃美がありました。
すると、ダビデの周りには苦しむ人が集まり、共に讃美するようになりました。
いつも喜んで生きる人は、喜ばれる人になります。

みなさん。人に喜ばれる人と、人を喜ばせる人とは違います。
自分が喜んでいなくても、人を喜ばせることはできるかもしれません。
しかし、自分が喜んでいないと、やがて喜ばせることに疲れを覚えます。
いつも喜んでいる人は、喜ばせようとしなくても、人に喜びを与えることができるのです。

パウロは「いつも喜んでいなさい」と言いました。
「いつも喜ばせていなさい」ではありません。
私たちは神様を喜ばせるのではなく、神様を喜んでいることが大切です。
私たちは自分を喜ばせるのではなく、自分を喜んでいることが大切です。
私たちは人を喜ばせるのではなく、人を喜んでいることが大切です。
いつも喜ぶとは、神様を喜び、自分を喜び、人を喜ぶことなのです。

私たちの人生には、二種類の喜びがあります。
一つはdoingの喜びであり、もう一つはbeingの喜びです。
私たちは祈りが聞かれたり、神様の御業を実感したときに、喜びます。
また、自分が何かを達成したり、成功したり、勝利したときに喜びがあります。
また、誰かが何かをしてくれたり、もらったりしたときに喜びます。
これらの喜びはdoingの喜びです。
doingの喜びは、祈りが聞かれなかったり、御業が起こらなかったり、
失敗したり、うまくいかなかったりすると、喜べません。
いつも喜ぶとは、このdoingの喜びではありません。

いつも喜ぶとは、もう一つのbeingの喜びなのです。
いつも喜ぶとは、存在を喜ぶということです。
神様の存在を喜び、自分の存在を喜び、隣人の存在を喜ぶのです。

神様の存在を喜ぶとは、神様が共にいることを喜ぶのです。
自分の存在を喜ぶとは、ありのままの自分を喜ぶのです。
隣人の存在を喜ぶとは、ありのままの隣人を喜ぶのです。
いつも共にいることを喜ぶ。
神が共にいることを喜ぶ。
自分が自分であることを喜ぶ。
隣人の存在を喜ぶ。
存在の喜ぶ喜び。これがbeingの喜びです。

私たちがこのbeingの喜びを持って。いつも喜んで生きること。
これが神様の御心です。

新しい年度、いつも共におられる神の存在を共に喜びましょう。
神に愛され、赦されている自分の存在を喜びましょう。
そして、神様によって一つの体とされたお互いの存在を共に喜び合いましょう。

私たちが神の存在を喜び、自分の存在を喜び、お互いの存在を喜び合うならば、神様は大いに私たちを祝福してくださると信じます。

第二番目。
祝福の三原則。その第二番目は「祈り」です。

5:17 絶えず祈りなさい。パウロは、絶えず祈りなさい、と言いました。
クリスチャンにとって祈りは、霊的呼吸です。
死んだ人は呼吸をしません。
呼吸が止まると死を意味します。

クリスチャンが祈りを止まれば、霊的な命は危機を迎えます。
また、クリスチャンにとって祈りは、神との対話です。
祈りは神とのパイプラインであり、ライフラインです。
ライフラインという言葉は、阪神・淡路大震災以来、よく使われるようになりました。
震災後、ガスや電気や水道という公共設備、電話やインターネットという通信設備、あるいは緊急物資を運ぶための道路や線路という交通設備の復旧が急がれました。

ライフラインとは、「生命線・命綱」のことです。
このラインが断たれたならば、生活や命が脅かされるのです。

クリスチャンにとって、祈りはクリスチャン生活のライフラインです。
もし、祈りが断たれたならば、早急に復旧する必要があります。

パウロは、絶えず祈りなさいと言いましたが、それは四六時中祈っていなさい、ということではありません。
神様とのライフライン、ホットライン、パイプラインを、保ち続けなさい、ということです。オンライン状態を保ちなさい、ということです。

今、教会の電話は光電話にしているのですが、NTTの基本料金が要らないというメリットがありますが、一つだけ問題があります。
それは停電になったら使えないということです。

最近では、オール電化の家が増えてきておりますが、もし、停電になったらすべての電気製品は使えなくなります。

みなさん。夜、寝るときに、電気代の節約だと言って、ブレーカーを落とす人はいないでしょう。
ブレーカーはいつもオンラインであるので、いつでもスイッチを入れたら電気製品は使えます。
しかし、ブレーカーを落としていると、ブレーカーを戻さない限り、電気製品は使えないのです。

絶えず祈りなさい、というのは、ブレーカーを落としてはいけないということです。いつでも神様にオンラインできる関係でいなさい、ということです。
神様とオンラインの関係にある人は、いつでも祈れるのです。
これが絶えず祈れ、ということです。
私たちが神様といつもオンラインの関係を保ち、祈り続けるならば、神様は祈りというコンセントを通して、必要な電力を供給し、祝福してくださると信じます。

ラスト、神様の祝福を受ける第三番目の秘訣は、「感謝」です。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。

ある宣教師が、東京の町を歩いていると、
一人の男性が、太陽に向かって、手を合わせて拝んでいるのを見つけました。

宣教師は彼に聞きます。
「どうして太陽を拝むのですか」
すると、彼は「だって、太陽のおかげで私たちが生きることができるのですから。
もし太陽の光と熱がなければ、人間は死んでしまうんですよ。
太陽の存在はありがたい。
だから、私は毎日、太陽を拝んでいるんです。

この宣教師には知恵がありました。
宣教師は彼に言いました。
一つ聞いていいですか。もし、寒い日に、あなたが友人の家に行って、ストーブを出してもらって、体が温まったら、そのストーブに手を合わせて感謝するんですか?
すると、彼は、ストーブにお礼する人なんていないでしょう。
友人にお礼を言うに決まっているじゃないですか。

そうですよね。ストーブの火はありがたくても、お礼は友人にしますよね。
ストーブを用意されたのは、その友人ですもんね。
あなたは太陽がとてもありがたいと言って拝んでおられたのですが、
もし、その太陽を用意されたお方がいるとしたら、そのお方にお礼をする方がいいですね、と言ったそうです。

どんなことにも感謝しなさい。
この言葉の中に、「神に」という言葉を入れるといいですね。
どんなことにも神に感謝しなさい。

みなさん。どんなことにも感謝するためには、神様が万事を益に変えてくださるという信仰が必要です。
マイナスをプラスに変えてくださるという信仰が必要です。
災いを祝福に転じてくださるという信仰が必要です。
悪を善に変えてくださるという信仰が必要です。
主の山に備えありという信仰が必要です。
感謝は人生に祝福をもたらす種です。
どんなことにも神に感謝するならば、その感謝の種は、やがて祝福の実を結びます。

新しい年度、この三つの祝福の原則を心に留めて、歩んでいきたいと願っています。

共におられる神の存在をいつも喜び、祈りによって、神とのオンライン関係を維持し、感謝の種を蒔いていくならば、必ず神様が豊かに祝福してくださると信じます。

このクリスチャンとしての基本フォームを、もう一度、今朝、心に刻みつけ、新しい年度が、ベテルチャーチにとって、祝福を実感する年となるように、祈っていきましょう。
お祈り致します。

イザヤ1:1-9「造り主なる主」

◎4月6日(日)
●イザヤ1:1-9「造り主なる主」
●要約 (リビングライフより)
神を捨てたイスラエルに対してイザヤが見た幻です。イスラエルは神の怒りを受け、地は異邦人に奪われ、荒廃し、町は火に焼かれます。彼らは畑の小屋のような姿で残されますが、それすらも神の恵みです。

●御言葉
牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。(1:3)

今日からイザヤ書に入ります。

イスラエルの民は偶像の神々に心惹かれ、自分たちの造り主を見失いました。

彼らの心は、動物の本能よりも劣るというのです。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(コヘレト12:1)。

今日は日曜日です。

私たちの造り主なる神を礼拝する日です。

今日も祝福を祈ります。byバルナバ

二テサロニケ3:13-18 「平和」

◎4月5日(土)
●二テサロニケ3:13-18 「平和」

●今日のみことばの要約 (リビングライフより)
聖徒はたゆまず善を行わなければなりません。福音のみことばに従わない人がいても、敵のように接してはならず、兄弟として戒めなければなりません。平和の主はどんな場合にも、いつも私たちと共におられ、平和をくださいます。

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(3:16)

マザー・テレサはいつも「平和の祈り」を祈り、実践しました。

「主よ、あなたの平和を人びとにもたらす道具として、わたしをお使いください。憎しみのあるところには愛を、不当なあつかいのあるところにはゆるしを、分裂のあるところには一致を、疑いのあるところには信仰を、誤っているところには真理を、絶望のあるところには希望を、暗やみには光を、悲しみのあるところには喜びを、もっていくことができますように」と。

平和の主と共に、平和を造り出す人は幸いです。

今日も祝福を祈ります。byバルナバ
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