『捧げることの祝福』

『捧げることの祝福』
(ヨハネによる福音書6章5節~13節)
(2017年9月10日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)

今、日本のクリスチャン人口は僅か1%にも満たない現状です。
毎週、礼拝を守るクリスチャンは0.2%と言われます。
絶滅危惧種のようです。
しかし、ここにも希望があります。
それは、神様は小さな者、弱き者、わずかなものを用いて、御自分の御業を行われるからです。

大切なことは、その小さなものが、主に捧げられ、祝福されることです。
主は捧げられたものを、御自分の御業のために用いられる。
それは古今東西、キリスト教の歴史が証明するところです。

日本ではキリスト教はマイノリティです。
しかし、不思議なことにキリスト教文化は浸透しています。

今、全国にある大学の10%はミッションスクールです。
全国には、宗教を背景にした私立の学校が849校あるそうです。
そのうち565校。全体の三分の二がキリスト教系の学校です。

なぜ、キリスト教マイノリティの国で、これほどキリスト教主義の学校が多いのでしょうか。
それは、日本のために多くの献げ物がなされ、祝福されたからです。
そういう意味で、日本は神の祝福を受けた国であると言えます。

以前、NHKで放送された「八重の桜」では、新島襄が同志社大学を設立する時の様子が描かれていました。
この設立には、アメリカンボードという米国の伝道団体が支援しました。

関学の設立には、ランバス宣教師の働きがあり、それをアメリカのメソジスト教会、さらには、カナダのメソジスト教会も支援していました。

日本で歴史と伝統を誇る大きな教会も、そこには多くの宣教師や宣教団体の祈りと献金が捧げられ、教会は神の祝福によって誕生したのです。
宣教師は、キリスト教を伝えるためにだけ働いたのではなく、ある人は医療、ある人は教育という形で、日本人に仕え、自らの生き方を通して、福音を伝えていきました。

かつて、イギリスで、アフリカに福音を伝えようという動きがありました。
まず、医療支援をしようと、教会では献金が集められました。
ある田舎町の教会に一人の少年がいました。
彼は、献金係が近づくと、「もっと下げて」と言いました。
当時は献金をお盆で集めていたのです。

献金係が、お盆を低くすると、その少年はお盆の上に飛び乗ったのです。
かい君ならしそうですね。

彼はふざけて乗ったわけではありません。
「僕にはお金はないけど、僕を捧げます」
有名なエピソードです。
彼の名は、デビット・リビングストンです。

やがてアフリカの探検家となり、三度、アフリカに渡り、医療活動をしながら、アフリカの地で生涯を終えました。
彼はイギリスにアフリカの現状と必要をレポートし、アフリカ宣教の道を切り開いたのです。

一人の貧しい少年が「僕を捧げます」と言って、献金台に乗りました。
その時、だれが彼の生涯を予想することができたでしょうか。

もし彼が今、天国で、今のアフリカの様子、今や大リバイバルが起こり、爆発的にキリスト教が成長している姿を見たら、驚くに違いありません。

今朝、取りあげました聖書の個所にも、一人の少年が登場します。
彼も同じです。
彼も、自分のしたことが、まさか聖書に記され、全世界の人々に知れ渡るような奇蹟になるとは、思っても見なかったでしょう。

今朝は、「五つのパンと二匹の魚」の物語を学びます。
ヨハネによる福音書6章5節、6節を一緒に読みましょう。

6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。

イエスは目を上げ、大勢の群衆を御覧になりました。
その時のイエス様の思いをマルコの福音書ではこう記しています。

6:34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。

なぜ、イエス様は憐れまれたのでしょうか。
それは、彼らが飼う者のない羊のように、飢え渇いていたからです。
何かが足りない。満たされない。喜びがない。霊的に渇いていたのです。

これは今の時代も同じです。
ものがあっても物足りない。
飲んで食べて騒いでも、何かが足りない。飢え渇いています。

人はパンだけで生きるものではなく、神の言葉が必要です。
イエス様は、群衆に生きる力を与える言葉を語りました。
そして、彼らの心の飢え渇きを満たしました。
さらに、イエス様は彼らの空腹までも満たそうとされたのです。

イエス様はフィリポに言いました。
この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか

「この人たち」とは、群衆のことです。
男だけで約5千人。女、子どもを入れると2万人はいたと考えられます。

私たちの教会は子供を含めると40名ぐらい集まっています。
今、同じ質問をされたら、わたしは答えます。
「ジャパンに行けばいいです」「イオンに行けばいいです」と。

しかし、これが40人ではなく2万なら話は別です。
「イオン、コンビニ、あっちこっちをかけずり回ったら、なんとか買えるかも知れません」というかもしれません。

イエス様の時代には、スーパーもコンビニもありません。
しかも人里離れた場所。無茶な相談です。

フィリポは真面目に答えます。
6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。

フィリポは計算のできる人でした。すぐにそろばんをはじきます。
群衆を見渡し、二百デナリオン分のパンでも足りない、と答えたのです。

一デナリオンは、当時の一日分の日当にあたります。
たとえば日当一万円で計算すると、約200万円です。

一個100円のパンを2万個買って、ちょうど200万円ですから、フィリポの計算は正確です。

そもそも論として、2万個のパンを売っている店などありません。
たとえ、売っていても、200万もの大金はないでしょう。

結論として、イエス様がしようとしていることは、無茶なことです。
できっこないのです。無理な相談です。
どんなにイエス様がお願いだ。「フィリポ、何とかしてくれ」と言われても、「お気持ちは分かりますが。できません」と言うしかありません。

神様のなさることは、わたしたちの計算とは異なります。
神様は、御自分の計算式を持っています。
わたしたちにはできないことでも、神様にはできる。
そこには神様の方程式があるのです。

それが「信仰」です。
神様は「信仰」という方程式を通し、私たちにはできないことを、可能にすることができるお方です。
ここに私たちの希望があります。
人にはできないが、神にはできる。これが私たちの信仰であり、希望です。
私たちからすれば、こんな小さなものが何の役に立つのか、というようなものであっても、それを用いて、それを突破口にして、御業をなさるのです。

6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

ここに一人の少年が登場します。
彼は自分のお弁当を持っていました。
母親が用意してくれたのでしょう。

普通、パンは小麦粉で作ります。
大麦は、家畜の餌になるケースが多いのです。
おそらく、この少年の家庭は貧しかったと思われます。

少年は、イエス様とフィリポのやりとりを聞いていたのかもしれません。
イエス様がパンを必要とされている。
僕が持っているパンを使ってください、と申し出たのです。

困ったのはアンデレです。
少年の気持ちは有り難いけど、これだけでは、何の足しにもならない。
ただ、純粋な少年の心に動かされ、イエス様のところに持って来たのです。
6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。

イエス様は少年の弁当を手にしました。
パンと魚を取り、感謝の祈りを唱えます。
他の福音書では「天を仰いで、讃美の祈りを唱え」となっています。
他の訳では、「祝福して」ともなっています。

少年が捧げたものを、イエス様が感謝し、祝福されたのです。
そして、そのパンを分けると、まるでマジックを見ているように、配っても、配ってもパンは無くならず、みんなが食べて満腹したというのです。
これは理性では理解できない光景です。

だから、ある神学者は、無理矢理、理性で解釈し、少年がパンを出したので、他の人も弁当を出してきて、それでみんな満腹した、と理解します。
合理的な解釈であり、確かに、少年が捧げたことで、みんなも捧げるようになった、という風に理解することも可能です。

この少年の行為が起点となり、みんなが満腹するに至ったのです。
6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。

教会の働きは、すべてこの少年の姿から始まります。
五つのパンと二匹の魚を捧げ、主が祝福されるのです。

私たちの教会も、前に献金台を置いています。
それぞれが主の御前に出て、少年のように献げ物をします。
私が献金の祝福を祈るときには、いつも今日の物語が心にあります。

天を仰ぎ、主に感謝し、祝福して祈る。
そして、捧げた人も、捧げられた献金も祝福され、主に用いられ、主の御業が進められていく。
そう信じて、毎週、祈っています。

私たちの教会は今月で、この清水の地に移転して10周年を迎えます。
神様は、御自分でしようと思うことをご存じだったと思います。

私はフィリポのように計算しました。
借家でのスタートでしたので、早く教会が欲しいと願い、みんなで会堂献金を始めました。
毎月、積立ながら、プランを検討しました。

ある時、二見に土地を見つけ、不動産会社に設計図を書いてもらい、具体的に話を進めました。
しかし、うまく行かなかったのです。

その頃、母に「ここが教会の予定地だ」と連れて行ったことがあります。
すると、母は「この場所はダメ」と猛反対したんですね。
理由は分かりませんが、母があれほど怒ったのは初めて見ました。
「もし、ここに教会を建てるならば、親子の縁を切る」という捨て台詞まで吐いて、帰っていきました。

それでも、そのまま準備し、設計を書いてもらい、話を進めました。
結局、資金面で困難なことが分かり、プランは白紙になりました。
そして、半年後に、この場所が見つかったのです。
礼拝後、みんなで見学に来た時には、今ひとつの反応でした。

私も新会堂を目指していたので、中古は無理か、あきらめかかりました。
その時、一人の兄弟が、「せっかく見たのに、話し合わないで帰るんですか」と言われ、会堂担当者で集まって話しました。

その席で、ある姉妹から「先生が自分で買ったら」と言われ、固まりました。
自分で買うという発想がなかったからです。
いくら何でも無理だろう、と思ったのです。
すると、家内も「それがいいかも」と言ったのです。

私は少年のように、進んで弁当を差し出したのなら、格好がいいのですが、強いられるように、「そうしよう」と決心したのです。
持っているお金を全部捧げ、それでも足りず、家内の両親に援助してもらい、何とかこの家を買うことができたのです。

「御自分では何をしようとしているか知っておられた」

ほんとうにそうでした。
神様は何もかも知っていて、私を試されたのだ、と思いました。
捧げたことで、祝福されました。

三年後、みんなで献金を捧げ、この家を私から買い戻し、今の教会が誕生したのです。

みなさん。捧げることは祝福です。
献げ物を通して、神様は御自分の御業をなさるのです。

主に捧げるならば、捧げられたものが祝福され、用いられます。
捧げた人も、祝福され、用いられるのです。

先週、会堂の借入金は、すべて返済が終わりました。
予定よりも、三年早く、返し終わることができました。
それは、会堂のためにと、特別に捧げてくれたがいたからです。

納骨堂もそうです。
納骨堂のためにと言って、特別に捧げてくれた方がいて、早期に納骨堂も取得することができました。

捧げることは祝福です。

かつてアメリカの教会の日本のために献金を捧げたように、
イギリスの教会がアフリカのために献金を捧げたように、
わたしたちの教会も、神の働きのために、もっともっと五つのパンと二匹の魚を捧げ、主の御業を体験していく教会へと成長したいと願います。

まだまだ小さな教会です。僅かな献げ物しかできません。
しかし、そこに希望があります。
主は、少年の献げ物を用いられように、私たちの献げ物を用いて、素晴らしい御業をなしてくださり、私たちが満たされるだけではなく、周りの人々をも満たすほどに、祝福されると信じます。

少年の身に起こった奇跡が、私たちの教会にも起こるようにと願います。
お祈り致します。
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礼拝説教 『なぜ、墓に向かうのか』

『なぜ、墓に向かうのか』
(マタイによる福音書28章1節~10節)
(2015年4月6日 ベテル清水教会 イースター讃美礼拝)

4月になりました。
4月には新しいスタートがあります。
キッズやユースの中にも、中学、高校、大学、あるいは社会人として、新しいスタートが始まっています。

4月は教会にとっても新しい年度の始まりです。
今年のスタートはイースターと重なりました。
良いスタートになります。

スタートにはゴールがあります。
私たちの人生は、どこに向かって走るのでしょうか。
私たちのゴールはどこにあるのでしょうか。

今朝は、「なぜ、墓に向かうのか」というテーマで、今日の聖書の日課の御言葉を分かちあいたいと思います。
もう一度、聖書をご覧下さい。
マタイ28章1節です。

28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。

週の初めの日の明け方というのは、日曜日の早朝のことです。
一週間は月曜から始まるのではなく、日曜から始まります。
日曜から始まるカレンダーは、聖書的です。

みなさん。一日はいつ始まり、いつ終わるのでしょうか。

時間的には、午前0時になると、新しい一日が始まります。
午前0時を過ぎて、テレビのニュースを見ると、「昨日」とか「昨晩」という風に、日が変わって語られています。

時間的には、一日は真夜中から始まります。
夜から始まり、夜に終わるのです。
創世記1章には、「夕があり、朝があった」と、何度も出て来ます。
「朝があり、夕があった」ではなく、「夕」が先です。

ユダヤ社会の一日は、日没から始まるのです。
一日が終わってから休むのではなく、
一日が始まってから、先に休むのです。

初めに休みがあるのです。
夕があり、朝があるのです。

これは朝、QTできない人には朗報だと思いませんか。
案外、夜、QTをする方が、聖書的なのかもしれません。

寝る前に、聖書を読み、黙想し、一日を感謝して眠りにつく。
そして、朝、もう一度、聖書を読み、祈りつつ生活する。
これが理想的な信仰スタイルです。

さて、日曜の朝、夜が明けると、すぐにマグダラのマリアともう一人のマリアが墓に向かいました。

彼女たちは、何しに墓に向かったのでしょうか。
何を求めて墓に行ったのでしょうか。
「なぜ、墓に向かうのか」
今日のテーマです。

生前、イエス様は、弟子たちに自らの死を予告していました。
一度だけではなく、三度も十字架の死について語っていたのです。

そして、イエス様が言われていた言葉は、現実となりました。
弟子たちは、十字架を見上げながら、主の語られた言葉は、本当だったということを確認したのです。

主の言われた言葉は、必ず実現します。

みなさん。イエス様が予告されたのは、十字架だけではありません。
イエス様は、復活をも予告していたのです。
三度も、「三日目に甦る」と語っていたのです。

主の言葉は真実です。
主の約束は事実となります。現実となります。
たとえ、まだ事実を見ていなくても、実現に至っていなくても、
やがて必ず実現し、事実を確認する時が来ます。

主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。

私の母は、この言葉を信じ、88歳まで生きてきました。
子供の頃から、ずっとこの言葉は聞かされてきました。
そして、私自身も、この約束が事実となる世界を見てきました。

これからもこの約束が現実になるのを確認していきます。

主の言葉は必ずなる。
これが信仰です。
事実となってから信じるのではなく、事実となる前に信じる。
これが信仰です。
ヘブライ人への手紙11章1節には、信仰の定義と呼ばれる御言葉があります。

11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

みなさん。信仰とは、主の約束を確信することです。
そして、見えない事実を確認することです。

たとえ、まだ実現していなくても、現実になっていなくても、
主の約束は必ず成就すると信じましょう。
そして、主の約束が事実であることを確認していきましょう。

さて、彼女たちも、主の言葉を聞いていました。
三日目に復活するという言葉は、聞いていたのです。
しかし、信じられませんでした。

みなさん。主の約束は、信じるか信じないか。信じる側が鍵を握っているのではありません。
主の約束は、たとえその約束を信じられなかったとしても、主を信じるならば、、現実になります。

みなさん。大切なのは、主を信じることです。主を信頼することです。
主を慕い求め、主から離れないことです。
主が共にいるならば、主の約束は現実となるのです。

彼女たちは、なぜ、墓に向かったのか。
それは、彼女たちが主の約束を信じていたからではありません。
復活を信じて、墓に行ったのではないのです。

では、彼女たちは、なぜ、墓に向かったのでしょうか。

イエス様が十字架につけられたのは金曜日の朝です。
そして、3時頃に息を引き取りました。
日が沈むと安息日が始まります。
その前に、慌ただしく墓に葬られたのです。

日本でも亡くなった人は、体を洗い、化粧をしたりしますね。
ユダヤでも香料や香油を塗ったりする習慣がありました。

ルカを見ると、彼女たちが前もって香料と香油を準備し、墓に向かったと記されています。

彼女たちは、安息日が明けたら、イエス様の体に香料を塗って、最後のお別れをしよう、と話し合って、墓に向かったのです。

彼女たちは、私たちが親しい人を失った時と同じ悲しみを抱いていたのです。
忘れられずに、墓に向かったのです。
悲しみを癒すために、墓に向かったのです。

しかし、この後、驚くべきことが起こります。

28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

先週もお話しましたが、主の御業が起こる時、しるしと不思議が伴います。

十字架の御業が起こった時、太陽は光を失い、神殿の幕は裂け、地震は起こり、死人が墓から出てくるという驚くべき出来事が起こりました。
これを見た人々は、御名を崇め、畏れ、ひれ伏しました。

復活の御業が起こったときにも、同様に、不思議な出来事があったのです。
この時も、地震が起こり、天使が現れたのです。
番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったというのです。
恐ろしさのあまりに、気絶してしまったのです。
さらに、もっと驚くことが起こります。

天使は彼女たちに言いました。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

「あの方は、ここにはおられない」

彼女たちは、墓の中にイエス様を捜したのです。
しかし、天使は「ここにはおられない」と行ったのです。

では、どこにおられるのでしょうか。
どこに行かれたのでしょうか。

みなさん。人生には、大切な三つの問いがあります。
この問いは、意識する、しない、考える、考えないにかかわらず、誰しもが持っている問いです。

第一の問いは、人生の本質に関する問いです。
「人は、どこから来たのか」という問いです。
なぜ、わたしは今、ここに存在しているのか、という存在への問いです。

私の存在は、「偶然」なのか。「必然」なのか。
私の存在は「進化のたまもの」なのか、「創造のたまもの」なのか。

とても大切な問いです。

聖書は教えます。
あなたは必然の存在であり、神の創造のたまものだ、と。

二つ目の問いは、人生の意味と目的に関する問いです。
人は、何のために生きるのか。
存在の意味と目的への問いです。

私は何のために生まれ、何のために生きるのか。
生きる意味と目的への問いです。

聖書は教えます。
あなたを造られた神のために生きる。
あなたを救われたイエスのために生きて、神の栄光を現せ、と。

そして、最後、三つ目の問いは、人生の終わりに関する問いです。
人は、死んだらどうなるのか。死んだらどこに行くのか。
死後の世界に関する問いです。

死んで、無になるのか。
死んで、もう一度この世に生まれ変わるのか。
死んで、復活し、天国に行くのか。

聖書は教えます。死は終わりではない。
復活があり、裁きがある、と。

墓は人生の終着地ではなく、復活と天国こそ、人生のゴールです。

みなさん。人は死ぬと、墓に葬られます。
アブラハムをはじめ、聖書に出てくる人々も、墓に葬られました。
イエス様も同じです。
イエス様も墓に葬られたのです。

なぜ、婦人たちは、墓に向かったのか。
それは、イエス様を愛していたからです。

なぜ、人は墓参りするのでしょうか。
なぜ、人は墓を建てるのでしょうか。
それは、そこに愛する人が眠っているからです。
そこに、大切な人の骨が納められているからです。

今、わたしたちの教会では、納骨堂を建てようとしています。
ほとんどの人が、この納骨堂に入りたいという希望を持っています。

聖書的な視点から言えば、私たちは納骨堂の中に眠るのではありません。
骨はそこに納めますが、霊は天にあります。

ですから、墓参りをしないからと言って、霊が寂しがることはありません。
墓参りをしないから先祖のたたりがある、というのは聖書的ではありません。

墓参りをするのは、世に残された人のためです。
墓は、悲しむ人たちのためにあるのです。
私たちが納骨堂を建てるのは、わたしたちのためではありません。
私たちは死んだら天国に行くのです。
イエス様のところに行くのです。そこは悲しみの世界ではありません。

しかし、世に残された人たちには、悲しみがあります。
悲しみを癒し、慰めるために、墓が必要なのです。納骨堂が必要なのです。

昨年、私の姉が天に召されました。
姉は、天国への確信を持っていて、讃美歌に包まれ、静かに旅立っていきました。
私は姉が天にいて、やがて姉とも会えるという希望があります。
姉は、天に召され、父に再会し、イエス様のそばで慰められていると思います。
しかし、この世に残っている私たち兄弟には悲しみがあります。

昨年の夏、高知に帰ったときに、父の墓に、姉の名前が刻まれているのを見て、切なく、寂しい気持ちになりました。
姉を愛しているからです。

姉は60歳になったら、母の世話をするのを楽しみにしていました。
わたしは姉ができなかったことを、していこうという思いになりました。

父の墓は、姉の家のすぐ家の裏にあります。
今までも兄が掃除し、管理してくれていたのですが、姉の遺骨も納められたことで、今まで以上に、墓に行って、掃除し、花を飾っています。
姉に対する愛を感じます。

なぜ、墓に向かうのか。
愛していたからです。
愛する気持ちが、墓に向かわせるのです。
婦人たちもそうです。
イエス様を愛する気持ちが、墓に向かわせたのです。
そして、墓の中で、天使の声を聞きました。

28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

墓の前で、主の言葉を思い出す。
これがキリスト教的墓参りです。

納骨堂は、愛する人を失った人に、主の言葉を告げ知らせる場所です。
そこで主の約束を思い起こすのです。
そこで信仰が回復するのです。

納骨堂は、信仰の記念碑です。
復活のメッセージを聞く場所です。

婦人たちは、墓の中で、天使に出会い、主の言葉を思い出すのです。
「そうだ。主は復活すると言われていた」
彼女たちは、大いに喜んで、墓を出て行くのです。

28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

主の言葉は現実になったのです。
婦人たちは、復活の主に出会ったのです。
そして、イエス様は言います。

28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

やがて弟子たちも、復活の主に出会うのです。

彼らは、主を失い、悲しみの中にいました。
しかし、彼は、墓から帰ってきた婦人たちの言葉を聞いて、ガリラヤに向かい、イエス様に出会うのです。

みなさん。主の言葉は必ず実現します。
わたしたちはたとえ死んでも生きるのです。
墓の中には眠り続けることはないのです。
墓の前で、泣き続けることはないのです。

喜びながら、墓を飛び出していくことができるのです。
それがイースターの知らせです。

今日はイースターです。
主は復活し、今、ここにおられます。
今も生きて働いておられる主を信じ、主を愛し、主と共に歩んでいきましょう。
お祈りいたします。

今週の説教 『祈りと憐れみの力』

『祈りと憐れみの力』
(ヨハネによる福音書7章53節~8章11節)
(2015年2月1日 ベテル清水教会 聖日礼拝)

新しい年が始まり、元旦の朝から、毎朝、いつもの祈りに加えて、ヤベツの祈りをするようになりました。

どうか、わたしを祝福して、わたしの領土を広げてください、という祈りです。
領土とは、わたしの器であり、キャパシティです。
主よ、わたしをあなたの器として、大いに用いてください、という祈りです。

主に用いられるために、祝福を流し出すために、わたしの器、キャパを広げてください、教会の器、キャパを広げてください、と祈っています。

昨日、母校の日本聖書神学校から手紙が届きました。
11月にゼミの講師に来て欲しいという依頼でした。
テーマは「インターネットと伝道」です。
オープン講座なので、外部にも呼びかけて宣伝するというのです。

わたしは、こう見えても人見知りです。
知っている人に伝えるのは得意ですが、初対面は弱いのです。
しかも、わたしよりももっと専門的にされている方がたくさんいます。
戸惑いました。

しかし、思ったのです。
これは神様がわたしの器を広げようとされていることかもしれない、と。
そう思って、引き受けることにしました。

みなさん。祈ると、何かが起こります。
祈ると、背中を押されるような体験を経験します。

祈りは、変化をもたらします。
神様は、祈ることを通して、私たちを変えたいと願っておられるのです。
御心に適う者へと変えていかれるのです。

今朝は、「祈りと憐れみの力」と題して御言葉を分かちあいたいと思います。
今朝は、今日の聖書日課の個所です。
もう一度、聖書をご覧ください。
中途半端ですが、7章の最後の節からです。
7:53 〔人々はおのおの家へ帰って行った。
8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。

今日の個所は、カッコでくくられています。
古い写本にはなかった、という意味です。
後から、付け加えられた部分です。
それだけ、発展していった教会には必要な内容だったということです。

53節と1節は、つながりがあるのです。

人々はおのおの家に帰って行った。
しかし、イエスはオリーブ山へ行かれた、となります。
最初に黙想したい個所です。

聖書を見ると、イエス様がオリーブ山に行かれるのは、祈る時です。
この山の麓にはゲッセマネの園があり、十字架にかかられる前も、そこで夜を徹して祈られました。
ルカ22章39節以下をご覧ください。
22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

「いつものように」祈られたのです。
「いつもの場所」で祈られたのです。

8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。

この言葉には「いつものように」という言葉が隠れているのです。
イエス様はいつものようにオリーブ山に行かれたのです。
人々がおのおの家に帰るように、イエス様はいつもの場所に行かれたのです。

みなさんは、いつものように祈る場所がありますか。
今日、礼拝が終わると、おのおの家に帰ります。
家に帰ってからも、祈っておられますか。

8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。

オリーブ山は、祈りの家です。一対一で神と交わる場所です。
QTをする場所です。

いつものように祈るところに、イエス様がおられるのです。
いつものようにQTをすれば、そこにイエス様がおられるのです。

みなさん。祈りには、力があります。
祈りには、人を変える力があります。
いつものように祈り、いつものように御言葉を黙想する時、
主は私たちを御心に適う者へと変えてくださるのです。

いつものように、祈り、器を広げていただき、御心に適う者へと、御心を行う者へと変えられていきましょう。

第二番目
8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

律法学者やファリサイ派の人々は、律法の専門家でした。
彼らは律法を守り、教え、正しく生きてきました。

正しく生きると、正しく生きない人を裁く傾向が強くなります。
ルールを厳格に守る人は、ルールを破る人を許せなくなります。
几帳面な人は、几帳面でない人が許せないものです。

ユダヤ人たちは、律法を知らない異邦人たちを見下していました。
ファリサイ派の人々は、律法を守らない罪人や遊女たちを、異邦人と同じように汚れた人だとレッテルを貼り、交わろうとはしませんでした。

しかし、イエス様は違ったのです。
イエス様は、罪人や遊女たちを憐れみました。
彼らを招き、彼らと食事を共にされたのです。
異邦人にも、救いの手を差し伸べました。

イエス様の姿は、彼らにとっては、許し難い行為だったのです。
カチンと来たのです。

放蕩息子の話で、放蕩三昧の息子が帰ってきた時、父親は喜んで息子を迎え入れました。汚れた息子、間違いを犯した息子を受け入れたのです。
その時、まじめに働いていたお兄さんは、カチンと来たのと同じです。

ぶどう園の労働の話もそうです。
ぶどう園の主人は、一時間しか働かなかった人にも、一日働いた人と同じ賃金を与えました。
この時も、まじめに働い人がカチンと来たのと同じです。

まじめな人は、不真面目な人が受け入れられるとカチンと来るのです。
正しい人は、正しくない人が受け入れられるとカチンと来るのです。
清い人は、汚れた人が受け入れられると、カチンと来るのです。

日本基督教団の総会議長された山北先生が「天笑人語」という本を出されました。
天笑とは、天の笑いと書きます。
山北先生は、わたしのダジャレの師匠です。本人は知りませんが。

この書物の中で「三み一体」について書いています。
この三位とは、父・子・聖霊なる三位一体ではなく、ひらがなの「み」です。

山北先生は、地獄の三み一体として、「ねたみ」と「そねみ」と「ひがみ」をあげています。
妬みとそねみ。
他人の幸せや長所をうらやみ、嫉妬する心です。
ここから憎しみが生じます。
ひがみ、歪んだ思い、ひねくれた心ですね。
素直に喜べない心です。

イエス様の戦いは、この地獄の三み一体との戦いでした。
この地獄の三み一体が、イエス様に石を投げ、十字架の死に至らせたのです。
山北先生はこう述べています。
「ねたみ、そねみ、ひがみ」は、地獄の三み一体となります。
この地獄の三み一体は、人と人とを切り、神と人の間を切り、さらには、自分と内なる自分を切り、自己分離・自己分裂をもたらし、人間の尊厳を失わしめます。この切れ切れに切っていくことが「罪」ということの内実なのでしょう。
さらに、「ゆるみ、りきみ、たるみ、いやみ」が加わると、七味唐辛子ならぬ七み一体となるのかなあ~
この問題性を超えさせるのが、天国の三み一体です。
つまり、神の「恵み、憐れみ、慈しみ」といった上から与えられるもので、これが人間性回復の基となることは、昔も今も変わりません。

まさに、イエス様とファリサイ派の人々の戦いは、
地獄の三み一体と天国の三み一体の戦いですね。

彼らはイエス様を陥れるために、罪を犯した女性を連れて来ました。
彼女の犯した罪は、律法では「死罪」に値するものでした。

残酷ですが、石を投げて殺されるのです。
ステパノは、迫害によって石打の刑に処せられましたね。

この女性に対して、イエス様はどう対処されるのか。
律法を破り、愛を貫き、彼女を赦すのか。
律法を守り、義を貫き、彼女を裁くのか。

愛を取るか。義を取るか。
究極の選択です。

彼女を赦せば、律法を破ったと言って告発できるのです。
彼女を裁けば、愛と赦しの教えに反することになるのです。

あなたはどうお考えになりますか。
彼らは強く迫ったのです。

8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

イエス様が黙って地面に文字を書かれている間、人々は黙想しました。
胸に手を当てて考えたのです。

彼らの目線は、彼女から自分に変わりました。
彼らの目線は、彼女の罪から、自分の罪に変わったのです。

みなさん。いつものように祈る。
いつものようにQTをするならば、目線が変わります。
視点が変わります。
自分を見つめるようになります。
御心が分かるようになります。
自分の生き方が変化するようになります。

主が沈黙し、主が言葉を発せられた時、彼らの中に変化が起こります。
御言葉を黙想すれば、罪が分かります。
罪が分かれば、石を手放すことができるのです。

彼らは、一人、また二人とその場を去っていきました。
誰も彼女を裁くことができなかったのです。

イエス様が「出て行け」と蹴散らしたのではありません。
彼らは、自ら離れていったのです。

8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

みなさん。祈りと御言葉の黙想、QTには人を変える力があります。
主の憐れみ、主の恵みには、人を変える力があります。

イエス様は言いました。
「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。

主の憐れみを受け、彼女は赦されたのです。
この愛が、私たちにも注がれたのです。
この愛が、私たちを造り変えていくのです。
この愛の背後には、イエス様の祈りがあったのです。
罪人を赦すために、御心を成し遂げようとする祈りがあったのです。

先日、CGNTVで、ハ・ヨンジョ先生が書かれた「愛するあなたに」という書物の一文が流れていました。
こんな言葉でした。

私たちは知識がないからではなく、批判的で否定的な考えのゆえに大きな苦しみを受けるようになります。
サタンは批判と憎しみ、怒り、赦せない心を食べて育つということを考えておいてください。
競争心と嫉妬から抜け出してください。
弱点、失敗、咎に対しても寛容になってください。
何事にも批判したり、否定的な態度を示さないでください。
このような態度は教会の共同体に傷を与え、分裂をもたらします。
共同体は批判によってでなく、愛と励ましによって立てられます。
人間は忠告によってではなく、祈りによって変わります。
過ちと咎は叱って直るものではありません。
励まし、愛することによっていやされ、回復されます。
間違ったことや失敗も、愛と赦しと忍耐によって受け止めてください。しばらくすると、奇蹟が起こります。

人間は忠告によってではなく、祈りによって変わる。
アーメンです。

過ちと咎は叱って直るものではない。
励まし、愛することによっていやされ、回復される。
アーメン。

これが神様の方法です。
これがイエス様の方法です。
祈りと憐れみによって、私たちを変えてくださるのです。

私たちも、神様の方法でもって、変えられていきましょう。
心の器が広げられ、大いに祝福され、その祝福が周りに流れ出て、周りに変化をもたらす者になりますように。
御名によって、祝福します。お祈り致します。
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